先週の金曜日に港区の耳鼻咽喉科で処方された薬を律儀に1日3回毎食後に飲み続けたボクののどは(のどそのものが自らの意志で飲み続けたと言っても過言ではない)、その後、徐々にではあるけれど快復の方向へと進んでいます。
大阪で過ごした土曜日曜はまだのどの痛みと寝る前に続く咳に悩まされ、東京に戻ってきてからは一時的にのどの痛みも強くなり咳も日中に出るようになりましたが、週の半ばあたりからまずのどの痛みが数年前の夏の思い出みたいにふとした瞬間にその不在に気がつくくらいのものになり、咳は相変わらず日中も寝る前にも出ていますがその執拗さは優柔不断なストーカーのそれのように減退しています。先週頭に2日間寝込んでからのことですからここまで快復するのにだいぶと時間がかかりましたが、途中からはのどの痛みと咳以外はとくに問題なかったのです。
だからマスクをして咳き込みつつ沈鬱な視線を眼鏡の奥から覗かせている人間に人は質問を投げかけるのだけど、またのどにトラブルを抱えていておまけにマスクもしているし出来るだけ喋りたくないのでボクも『いやあ』とか『まあ』とか否定とも肯定もとれない返事しかしないので余計にそういった印象を増長させてしまうのかもしれないのだけど、あるいはただ単に元からが無愛想だということも多分にありますがそれはそれとして、のどにトラブルを抱えている人間に根掘り葉掘り問いかけるのははっきり言って暴力と言うものです。そうすることで相手にどうすることを強いているのかをわかっているんだろうかと考えたりしました。骨折して歩くときに松葉杖が必要な人に『ちょっとあれ取ってください』と相手を歩かせるようなことをさせたりはしないのに(しないよね?)、マスクをして咳き込んでいる人間には質問者の都合で質問が出来る。その違いはどこからくるのだろう?
けしてそれだけではないのですが、目に余る無頓着さや稚拙さに辟易する毎日を過ごしています。電車に乗っていても開いたドアの真ん前で微動だにしない人がいたりするとはり倒したくなる。でも社会性をばっちり兼ね備えたボクははり倒すなんてことはけしてしません。してもせいぜい気付かなかったふりをして体当たりするくらいです。
でもまあ仕方ないのかもしれないなと思うところもあります。当然ボクの考えや感受性が真なわけではなくて単にボクがボクの考えや感受性を持っているボクであるだけであって、他人にそのようなことを強制するつもりもこともできないわけです。もちろん最低限これは正しいという社会的なコンセンサス、常識と呼んでいるようなものはあるとは思うのですが、でもボクがいちいちそれを啓蒙してまわりたくなんかありません。そんなものは(それに従うかどうかという思想も含めて)持ち合わせた上でボクの前に立ち現れてきて欲しいのです。振り返ればボクはそのような考えや感受性をある程度共有できる人たちとしか仲良く出来ませんでした。突っ込んだ話をしたり悩みを相談したりというように信頼のおける人というのは数少ない友人たちなのです。
ボクは赤線で×印を書いたマスクを付けて生きるべきかもしれません。