電車の開いたドアの前に立つ人々

 最近は苛立つことが多い。理由もなく苛立つというわけではないのだけど(理由がないのなら苛立ち程度では済まないし)、すべてのケースについてその原因を特定しこちらから働きかけが出来るかというとそういうわけにもいかない。そういう場合は苦し紛れに苛立ちの痕跡をその場に残すことくらいしか出来ないけど、開いた電車のドアの前に立ったままで降りる人の邪魔になってるアホなヤツに舌打ちしたって何の意味もないのはよくわかっている。
 反対にこちらから働きかけが出来る場合はどうかというと、働きかけるだけのことはあると思った場合にはとことん働きかけることにしている。自分が属している組織・集団との関係によく見られるわけだけど、一方的に何かが決められたり、何かを強いられたりする場合に納得がいかないことがあり、同時に納得のいく説明がなされない場合にはこちらから働きかけるようにしている。
 『向こうの事情はきっとこうで、こういうつもりで言ってるのだろうから、こちらもそれにはまあ応じないとね』なんていう物わかりの良いフリを装った奴隷根性はボクにはない。そもそも納得がいかないことを(盲目的にであれ、結果的にであれ)黙って受け入れるような訓練は受けてない。まずは向こうの事情を聞かないと始まらないし、向こうには向こうの主張がありこちらにはこちらの主張があるわけだから、お互いの主張をお互いが把握した時点を出発点として議論していくのがあるべき姿であろうと思っている。納得いく・いかないは別にして、お互いが何をどう考えているかということを把握するのは大切で、それこそ組織と一個人が同じ思いなんて抱けるはずがないのだから、互いが相手に対して緊張感・不信感を持つと同時に互いを理解しようと努力することが必要なんだと思う。
 それはたぶん人間関係においてもあてはまる。適当な結論に飛びつくようなことはけしてしないようにしているし、だからこそそういうことをされたり第三者についてそういうことをしている人を見るとすぐ、その人が電車の開いたドアの前で出て行く人の邪魔になっていることに気がつかないのか、気がついていてもどうすれば自分が人にかけている迷惑の分量を少しでも減らすことが出来るだろうかと考えないヤツに生まれ変わるのを目の当たりにする。
 自分が他者からどう思われているだろうかと想像する力に圧倒的に欠けている人が多いと、実際に自分が体験したり、妻や友人から話を聞いたりして、ここのところ実感している。想像力の圧倒的欠乏。自己主張ばかりが強かったり、反対に何でもはいはい受け入れて主張が出来ない(あってもなくても、具体的に行動に移せない)人が多いような気がする。ああ、そんな人とは仲良くなれないや。あと5年もすれば電車のドアの前がそういった人たちにすっかり埋め尽くされてしまって、ボクたちは電車から降りることが出来なくなるんじゃないかと本気で考えている。あるいはもうすでに、ドアの前に立ってる人を押しのけることも舌打ちして威嚇することもできず、泣く泣く終点まで電車を降りられない人がいるのかもしれない。用もないのに途中の駅すべてでドアの前に立ってる人を押しのけて電車を降りるような強者がいたらそれはそれで奇異の目で見ることになるかもしれないけど。

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