ここのところ一生懸命に大江健三郎を読んでいたのですが、一番最近は燃えあがる緑の木 3部作を読みました。
もうすっかり大江健三郎の文体に対して身構えることもなくなったような気がします。3部作ということでいざ読み始めようという時には『これからたっぷり読めるんだ』という喜びからくる興奮があったように思います。と同時に『長丁場になるぞ』という不安もあったことでしょう。不安が潜んでいるからこそ喜びが興奮という姿を借りて現れてきたのではないかと思うからですが。
小説を読むということはひとつの体験で、おそらくそれはけして他人とは共有され得ないものだと思っています。それがたとえ『あらすじ』みたいな小説であっても、それを読む体験はそれぞれの人に固有のはずです。なので燃えあがる緑の木という小説がボクにとってはどのような体験であったかということを書くことになるわけですが、第1部では人々の愚かさに冷笑を、第2部でもその感覚は幾分ひきずっていましたが詩や宗教の話題が多くなるにつれて本当のところではこれらのことを自分は理解していないと思いながら読み進めていました。第2部から第3部にかけて、なぜ人々はギー兄さんを救い主とした教会に集まるのだろう、なぜギー兄さんを信じるのだろうと思いながら読み続けました。ボクには最後まで自分が教会に参加するだろうという動機は見つかりませんでした。ただ、ギー兄さんが最後に言われた言葉に勇気づけられた気がします。
それはこのような言葉でした。
本当に魂のことをしようとねがう者は、水の流れに加わるよりも、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞれ自分ひとりの場所で、「救い主」と繋がるよう祈るべきなのだ。
燃えあがる緑の木〈第3部〉大いなる日に (新潮文庫) P370
そのようにして『救い主』はその輪郭を明らかにしてくるのだと続けられていますが、『それぞれ自分ひとりの場所で』『祈るべきなのだ』というギー兄さんの言葉に、ボクはこの3部作を読んできてほとんどはじめて驚きと興奮を感じました。やはりボクはギー兄さんを信じて人が集まってきた教会には違和感を感じていたのかもしれません。自分なら絶対にそこへは行かないだろうという……
ギー兄さんがどのような思いでそのようなことを口にしたのかはわからない。ボクにとっては『救い主』も神も存在しないも同然で、でもそれぞれがそれぞれの場所で存在しない何かに向かって『集中』するべきなのだ、でもそうするのには個の強さがいる、と思い返したのでした。
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