『チェ 28歳の革命』を見て考えたこと

 金曜の夜に仕事帰りに映画チェ 28歳の革命を見に行ってきました。東京に出てきてそういうこと(会社帰りに映画を見に行くこと)をするのははじめてのことです。しようと思えばいくらでも出来たはずなのに、気持ちの変化なのかそれとも作品に惹きつけられたのだろうか。
 ラゾーナ川崎にある109シネマズで見たのですが、9時15分からのレイトショーだと1200円なのです。7時半くらいに会社を出て8時前には着いたので、まず映画館で席を確保してから1階のフードコートで夜ごはんに盛岡冷麺を食べました。ごはんを食べても映画の時間までけっこうあるので喫茶店でコーヒー飲みながら読書できると予想していたのですが、無印良品や書店をぶらぶらしているとそんなでもなくなりました。なのでそのまま映画館に行ってベンチで本を読みながら待っていたらすぐに入場がはじまりました。金曜日のレイトショーを見に行く人は少ないのかも知れません。
 映画は1956年から1959年にかけてのキューバ革命を目指した闘争と、1964年のニューヨークでの国連総会での演説の様子が平行して描かれていました。闘争のシーンでは(山の中での単調なシーンが続いたあたりで少しうとうとしてしまったのですが)パレスチナのことを思い出さないわけにはいきませんでした。とくに革命軍が都市部に侵攻してから、市街地に隠れた革命軍に対して軍事政権が空爆を行い市民が巻き込まれている場面を見ると、市民が生活を送っている街中に爆弾が落ちてくることからの連想でイスラエルのガザ侵攻を思い出さないわけにはいきませんでした。
 映画を見て考えたこと。
 支配する者(虐げる者)と、支配される者(虐げられる者)がいるところで、虐げられる者が解放されるにいたる道がもし武力闘争しかないとしたら悲しい気がする。ただ、虐げる者はやはり武力を背景にして支配を行っているわけだから、支配する側に大きな転換がない限り、それに対抗しようとするとやはり武力を持って行うしかないのだろうか。
 ただ、今この時代に武力闘争は可能なのだろうかとも思った。支配する者の圧倒的な軍事力に対抗するのは難しい。イスラエル軍とハマースとの軍事力の差は圧倒的なので軍事力を前提とした武力による闘争は成功しないと思わざるを得ない。この映画を見ていると、支配される者が解放されるに至る道は武力闘争しかないのではないかと思うようになるのだけど、圧倒的な軍事力の差を前にするとそれはけして成功しないだろうと思わざるを得ない。
 ではどうすればよいのだろうか。それは虐げられている当事者だけに闘わせないことではないでしょうか。たとえ中東から遠く離れていようと、ガザで何がなされたのかということを知り、そしてそれに反対の声を上げなければならないのではないでしょうか。この1ヶ月、ガザのことを考えない日はないのですが、そのことを会社なんかでまわりの人と話した記憶がほとんどありません。1300人以上の人が死んでいるというのにこの無関心さは何なのかと問いただしたくなったりします。
 そしてガザだけではなく他の問題にも、そして自分自身が虐げる側にまわっていないかということについても敏感になりたい。キューバ革命が虐げられる者を解放したとはいえ、その武力闘争の中で革命軍が多くの軍事政権の兵士を殺害したことそのものにはボクはやっぱり諸手を挙げて賛成は出来ません。ガザ侵攻についてもガザ市民に1300人以上の犠牲者がいるとともにイスラエル側にも犠牲者がいることを忘れてはいけないと思う。死者の数は何かの根拠になるのではなく、それだけの悲しみがそこに生み出されたということ、必要のないものがそれだけ生み出されたということなのだと思います。

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