『ノルウェイの森』を見ました

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 正月に妻の実家に帰省している間にノルウェイの森を見てきました。
 原作をはじめて読んだのはもう15年以上前のことで、それ以来何度か読み返してもいます。若かった頃はとても思い入れのある小説でした。映画が公開されるということで久しぶりに読み返してみたのですが、昔読んだときとは印象がけっこう違っていて驚きもしました。若かった頃はこの小説は直子の物語だったのが、35になった今読んでみると直子と緑の間で心揺れ身動きが取れなくなっているひとりの若い男性の物語だということに気がついたのです。あの頃はいったい何を読んでいたのだろうかと思いました。
 映画の方も15年前に見ていたらまた違った感想を抱いていたかもしれません。原作と比べて感じた違和感ベスト5をまとめてみようと思います。ネタバレや思い違いや個人的見解を多分に含んでいると思うので情報の正確さには欠けるかも知れないことをご了承ください。

#5 電車のシーンがない

 東京でワタナベが直子と再会するのはたしか電車の中でだったと思います。偶然に再会したふたりは近くの駅で降りて例の長い散歩をしたんじゃなかったっけ。また、緑の家に行くときも電車(路面電車?)に乗ってたし、レイコさんが東京に来たときも駅まで迎えに行ってた。最後のシーンだって東京駅までレイコさんを送っていった後の電話ボックスだったと思うので、電車や駅にまつわるシーンが映画ではばっさりと切り捨てられていました。
 原作では電車に乗ったり駅に行ったりしてたんだけど、と見終わった後で妻と話していると、ロケーションの問題なんじゃないかという話になったのですが(電車に乗るとなると、当時の駅や電車の窓から見える当時の町並みを再現しないといけない)実際はどうだったんでしょうか。

#4 突撃隊の蛍のくだりがない

 ノルウェイの森という小説は、それ以前に書かれた『蛍』という短編小説をベースに、あるいはそれが組み込まれる形になっています。寮で同室だった突撃隊(というニックネームの男)にもらった蛍を寮の屋上で逃がしてやるという印象的なシーンが映画にはありませんでした。映像にするととても綺麗な場面だと思うのですが。

#3 レイコさんとすき焼きを食べない

 食事をするシーンは京都よりも東京側にたくさんあります。生きることの象徴として食事をとらえることはこの小説においてはあまりにも簡単に出来てしまうのですが、だからこそ緑の家で彼女が料理を作って一緒に食べるシーンがあるのにどうして東京に出てきたレイコさんに縁側でがっつりすき焼きではなくマンションでラーメンなんか食べさせるのか理解出来ません。直子のお葬式をふたりでやるという意味でも、豪勢にすき焼きを食べ、ワインを飲みながらギターで弾ける限りの曲を弾き、そして最後にレイコさんが再びこちら側の世界に戻っていく橋渡し役をしないといけなかったのに。映画ではいろんなことが台無しになっていました。
 それから映画のレイコさんはちょっと綺麗過ぎやしないかと思います(原作のレイコさんには申し訳ないのだけど)

#2 緑が怒ったことの原因

 原作では緑が髪型を変えたことにまったく気がつかずにいたことで緑は怒ります。でも映画ではバーみたいなところでポルノ映画の話をする緑に対して『場所をわきまえてくれ』とワタナベなら到底言いそうもない台詞を口にさせて緑を怒らせます。次にあげる違和感を除けば、この台詞には本当に度肝を抜かれるくらいに違和感を感じました。ワタナベなら絶対に口にしない種類の言葉だと思います。

#1 直子のキャスティング

 これはもうどうしようもない。

 以上が映画『ノルウェイの森』に感じた違和感ベスト5です。もう一度見たらさらに何か見つかるかもしれません。

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