2011年4月8日13時43分に第二子を授かりました。女の子です。
長男のときほど今回は妊娠中の妻をサポートすることが出来ませんでした。おまけに去年の秋にボクは椎間板ヘルニアを患ってしまうし。それでも何とか妻は頑張ってくれました。
里帰り出産することと、長男の時にそうだったこともあって帝王切開をすることは決まっていました。予定日が4月の下旬で3月中旬に富山の実家に帰る予定でいたのですが、2月末の定期検診で状態があまり良くないので今のうちに実家に戻っておいた方が良いと産婦人科で言われたので、予定を10日繰り上げて3月2日に妻と息子が富山に帰りました。3月12日に予約していた飛行機のチケットをキャンセルしたわけですが、3月11日にあの地震があったわけですから、3月2日に帰っておいて良かったとあとになって妻とも話しました。もしかして赤ちゃんが妻と息子を安全なところへ連れて行ってくれたんじゃないか、と。
帝王切開の手術日が4月8日に決まり、ボクは前日の7日から週末を挟んで11日まで富山にいました。一人目のときとは違って全てが予定通りに進んでいき、母子共に何の問題もなく手術は無事に終わりました。息子と一緒に手術室から赤ちゃんが出てくるのを待っていたのですが、赤ちゃんが出てきたときには息子はボクの腕の中で眠ってしまっていました。
それから妻が出てくるまでの時間がすごく長く感じられました。妻が出てくるまで安心出来なかったからです。手術室からベッドに載った妻が運ばれてきて、一緒に産まれたばかりの赤ちゃんを見たときにようやく安心して色々と喜ぶことが出来ました。
一人目の子供が産まれたときに感じたことと、二人目の子供が産まれたときに感じたこととでは、同じようなこともあるし異なることもあります。産まれた娘が元気に育って欲しいという気持ちは何も変わらないのだけど、一人目のときになかったのは、妹が出来たということを息子はどのように感じているのだろうというようなことで、息子のこともやはり気になるところです。ボクは弟が一人いるだけだし、妻は妹が一人いるだけで、ボクたち両親はどちらも異性の兄弟を持っていません。息子にはボクたちが経験できなかったことを経験して欲しいと思っています。
産まれたばかりの娘に対して思うことはとにかく元気に成長して欲しいということしかありません。一人目のときにはいろいろと考えたものだけど、子育てに対する不安だとか、子供に対する希望だとか、そういうものはどちらかといえば奥の方にしまっておいて、日々の成長をしっかり見守ることや大切な瞬間を忘れないようにすること、そういうことの方が日常においては大事なのだと考えています。それは子育てを経験したからでしょう。子育てを通じて得ることの出来るものは、ひとりで頭の中だけで考えていたこととはまったく違うものです。ただ、ひとりで考えたことはそれとしてどこかにしまっておきたいとも思う。
産まれたばかりの赤ちゃんはとても軽くて本当に羽みたいに軽かったです。一人目のときには赤ちゃんをはじめて抱くのにぎこちなかったものでしたが、今回はまったく問題なくてボクも慣れたものですね。腰の調子と相談しながら息子も抱っこしましたが、こちらはしっかりと重たかったです。1ヶ月ぶりに会った息子は成長していました。きっといろいろ我慢していることもあるんだろうなあと思いながら、そう出来る息子を誇りに思いつつ、息子の健気さが愛おしくて抱きしめて褒めてあげたくて仕方がありません。
そして娘には元気に産まれてきてくれてありがとう、妻には可愛くて元気な子供をふたりも産んでくれてありがとう、そして息子にはお兄ちゃんになってくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。
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妻が勤めている会社で正月明けにビンゴ大会が開催されるということをちょうど1年前、正月明けに面接を受けてその次の日から勤め始めたとき
どうするのかなあと何の気なしに思っていたら、大阪に住む妻の妹に送ってあげるということになりました。話がややこしくなるので仮に今我が家で使っている炊飯ジャーを炊飯ジャーA、妻の妹が大阪で今使っているのを炊飯ジャーB、妻が会社のビンゴ大会で持って帰ってきたのを炊飯ジャーCと呼ぶことにすると、まず炊飯ジャーAを買ったのがいつだっけという話題になりました。なぜなら、AとCの性能を比べて良い方をうちで使おうということになったからです。あらためて考えてみるとけっこう前のことで、まだ大阪で妻と同棲していた頃に買ったということが明らかになり、少しばかり驚きました。もっと最近買ったのだ、だからまだまだ機能的にも先頭集団に含まれていると思っていたからです。
大阪でまだ同棲していた頃となるともうかれこれ4〜5年前になります。ボクが東京に出てきたのと時を同じくして妻と妹が一緒に暮らし始めたとき、大阪に残ったのがAで東京にやってきたのが妻の妹がそれまで使っていたBでした。東京での単身赴任中、ボクの一番近くにいてくれた炊飯ジャーは炊飯ジャーBです。その後、妻と息子が東京に出てくる際に、炊飯ジャーAとBは東京・大阪間で交換されることになりました。
それから2年あまりの時が経ち、炊飯ジャーCが現れることとなりました。炊飯ジャーBは旧式で容量も少なかったので、Bの後釜としてAは随分と役に立てるのではないかと思います。
しかし正直なところAとCで炊きあがりにどのくらいの違いがあるのかはよくわかりません。ふたつ並べてお米を炊いて食べ比べてみればわかったのかも知れないけど、そのような機会もないままに大阪に送ってしまいました。新しい炊飯ジャーは蒸気があまり出ないようになっているのですが、洗わないといけないパーツが多くなっています。
先々週末くらいに子供のおでこや首やおしりにあせもが出来ているのに気がついたので妻が皮膚科に連れて行って薬をもらってきました。保育園の先生のアドバイス通りに朝にもシャワーをするようにして、薬を塗って気をつけていたら一時はましになってきていたのだけど、昨日一昨日くらいに急にまた赤い発疹が広がってきているのを見付けたので、昨日保育園のあとで妻が再度皮膚科に連れて行ったらカンジタ性皮膚炎だと言われました
それで、ボクが子供の頃はお風呂上がりに天花粉をぱたぱたとよく付けられていたなあと思い出したりしました。呼び方はいろいろとあるみたいですが、最近ではあまり使われなくなっているみたいですね。妻もベビーパウダーは使わない方がいいと言っていました。あれはたぶん汗をかいても粉がすぐに吸収して肌がべたつかないという効果があったのでしょう。確かに、お風呂のあとで薬を塗っても遊んでいるうちにまたすぐに汗は出てきてますからね。ただそのせいで毛穴がふさがって、正常に汗がかけないようになったりもするみたいです。
最近また育児に関する悲しい事件があったりしていろんな人がいろんな考えを言っています。ボクもいろいろ思うことはあるけれど、育児の大変さはそれを実際にしている人か間近で見ている人、関心がある人じゃないとわからないと思います。そして子供を育てるということが各家庭内だけの問題ではなく社会の持続性に関わる問題であるという認識を持つかどうかで、育児に対しての考えは大きく異なるでしょう。もっとも、ボク自身も自分に子供が出来るまでは無関心な方でしたし、今でも社会の持続性のことを考えて育児しているかというとそうではありませんと答えるでしょう。実際は日々の、目前の問題に向き合うだけでいっぱいいっぱいです。毎朝同じ問題が持ち上がると同時に、新たな問題がそこに加わります。それを子供の成長と喜ぶにはあまりにもゆとりのない生活を送らざるを得ないというのが正直な感想です。本当は子供の新しいぐずり方ひとつひとつを喜びたいのですが、仕事は毎日同じ時間にはじまるし、今のところそれに従わざるを得ません。
毎朝、時間のない中で子供を保育園に送っていく準備と自分の出勤の準備をし、その過程で思うように動いてくれない子供に怒ってしまう自分が、つい声を荒げてしまう自分が嫌で仕方ありません。なんとか家を出て道中一緒に歌を歌ったりしながら保育園に預けたあと、ひとり会社へ向かう段になると嫌悪感に襲われます。どうしてあんな怒り方をしたんだろう、今日は早く帰って朝のことを子供に謝ろう、そして一緒に遊ぼう、と。また、もし朝怒ったことで子供が一緒に遊ぶのを嫌がったらどうしようと不安になりもします。毎日がそれの連続です。だから、子供が思うように動いてくれないときでもきちんと子供と向き合って、話をして、一緒にやることを決めていけるように心にも時間にも余裕がある生活にしなければなと思っています。
子育てを通して自分を見直す日々であります。そこから何も学べないなら真性のアホですな。
最近は毎日蒸し暑くて、特に寝室が蒸し暑くて寝苦しく、でもエアコンのドライを入れると室温が下がって寒い寒いと言われるし、息子もちょっと咳をし出したりして可哀想になって、だからといって我慢できるような蒸し暑さでもないので、思い立ってすのこベッドとマットレスを購入することにしました。シングルを2つ買って並べれば親子3人で広々と眠れるでしょうという目論見は見事的中して、とても快適です。ただマットレスの固さに慣れるのに少し時間がかかるかも知れませんが
すのこベッドが快適というのもあるけど、これまで寝ていた敷き布団がもうすっかり古いというのもあったでしょう。妻と同棲を始めたときに買った布団ですからね。もうかれこれ10年選手です。そういうわけで、すっかりカビが生えてきた書斎の椅子と一緒に区の粗大ゴミセンターに引き取ってもらうことにしました。数多の夜をその上で過ごした敷き布団との別れを思うと枕を濡らさないわけにはいかない、ということは全然なくてさっさと持って行ってもらいたい。
寝室を快適にして睡眠の質を高めたいというのはずっと思っていて、というのも平均するとけして睡眠時間は短くはないと思うのですが、どうも疲れが抜けきらないように思えて仕方なかったからです。あまり派手にお金を使うことは避けたい夫婦なのですが、息子も喜んでいるし安かったし、なかなか良い買い物だったのではないかと思います。
さっそく、今朝方『ドスンッ』という大きい音に目を覚ましたら息子が頭から下に落ちていました。慌てて妻が引き上げたのだけど、息子は眠ったままでした。痛くなかったのかな。
家から歩いて5分もかからないところに区立の図書館があってよく利用している。どちらかといえば長編小説を借りて読むことが多く読み終えるにはそれなりにまとまった時間がかかるから、頻繁に利用しているというような、毎日とは言わずとも週に2・3回は足繁く通っているようなことはなく、大抵は週末に借りに行くか返しに行くかするくらいで、それも毎週末というわけではありません。ただ、区の図書館のサイトで借りたい本を検索して予約することが出来るので、図書館に足を運んで本を探すというようなことはほとんどしていません。唯一、入り口近くにある新着コーナーに陣取っては何かピンと来るものがないか物色したりするくらいです。そしてこれが意外とあるものなのです。元々気になる作家の新刊本に出会ったり、サイトではけして検索しないような本が面白そうで借りてみたり
そういうわけですっかり本を買わなくなりました。去年一年間で買った本と言えば、たぶん1Q84くらいなんじゃないかと思います。これはさすがに図書館で借りるとなるといつになるやら分からなかったので買って読みました。人気作家の新刊は特に区の図書館が所蔵している冊数と予約している人の数とのバランスが取れていないのですが、それはまあ仕方ないと思います。もちろん区民それぞれが読みたいと思う本がいつでも読むことが出来るという状況が実現出来れば言うことはないのですが、それは図書館が電子書籍を取り扱うことが出来るようになるまで解消されない問題だと思うので、現状では仕方ないと思います。ボクにとっては自分が読みたいと思う作家の作品が意外と借りられていないことが多いという印象です。ポール・オースターの幻影の書もすんなり借りることが出来たし、ボクの守備範囲であるところのアメリカ文学の主たる所をざっと検索してみたところでも特に予約が殺到しているということはないようです。
この先、引っ越すことになったときには図書館が近くにあるということが大きな条件になりそうです。
1月ももう5日になってしまい、今日から働いております。長いことブログを書いていなかったので、今年こそはもっとたくさん書きたいなと望みつつ、この間の出来事などを書いてみようと思います。
12月は月の半ばに会社の事務所が新宿に引っ越したので仕事面では少しバタバタしていました。年末までにしておかなければならないことを年末までにしておいて、普段あんまり取得しないのでだいたい大型連休を拡張することになる有給休暇を年末に取ることにして、25日が仕事納めとなりました。また、家庭面では11月末から妻の実家で預かってもらっていた息子を19日に東京に連れて帰ってきました
久しぶりに子供とお風呂に入るのを楽しみにしていたのですが、富山にいるときから風邪気味だったみたいで、21日22日と2日続けてファミリーサポートのサポーターの方に預かってもらう予定だったのですが、22日は朝から高熱を出していて預かってもらうことが出来ず、妻が就職活動の面接をキャンセルして子供を病院に連れて行ってくれました
それからも子供はずっとぐずぐずしていたので、結局、26日の早朝の便で大阪に帰省するときも熱が高かったらどうしよう、無理させることは出来ないなとハラハラしていたのですが、なんとか大阪に行くことは出来ました。それでもまだ熱があったので、大阪では妻の妹に車を借りて移動することになりました。これが幸いしたのかどうか、また大阪に着いた初日が暖かかったこともあったからか、どうやら車での移動中にチャイルドシートで眠ってる間に汗をかいて熱が下がってきたのです。大阪では初日に祖母の家へ行って、次の日に友人家族の家におじゃまして昼食をご馳走になって、夜ごはんに西中島南方の韓国料理屋に連れて行ってもらいました
息子はつい最近まで妻の実家にいたので、勝手知ったるがごとく、家に着くなりおもちゃ箱からおもちゃを出して遊んでいました。大阪から金沢までの道中が大変だったので
今年も greenplastic.net をよろしくお願いします。
妻が子供を妊娠したのがわかったのが一昨年(2007年)の秋のことでした。それから去年(2008年)の夏に出産するまでの妊婦検診には毎回付き添いました。そのときすでにボクは東京に単身赴任していたのですが、はじめのうちは月に一回、途中から隔週で受けた検診を毎回土曜日の午前中に予約して、検診のある週はかならず金曜日の夜に新幹線で大阪に帰るようにしていました。
もちろん毎回の検診にはしっかりとお金がかかりました(東京・大阪の往復の交通費も)。
いつの間にか妊婦検診に助成金が出るようになっていたのですね。都道府県ごとの平均額を見てみると、大阪府は助成額が一番少ないみたいです。妻が長男を妊娠していたときには助成そのものがありませんでした。だいたい毎回五千円支払っていたと思います(妻に聞いてみたら、五千円くらいのときもあれば一万円くらいのときもあったようです)。妊婦健診は『出産前に14回程度受けるのが望ましいとされ』ているようなので、けっこうな額になりますね。でも助成のようなものは何もありませんでした(確定申告の時に家族の医療費をまとめて控除を受け取ったくらいです)。
これまで子供を育てようとしなかった人たちのうちどれだけの数の人が、助成金が出ることで方針転換し子供を作って育てようとするようになるのかは想像も付きません。もちろんないよりはあった方が良いのはお金の常ではあるわけですが、『妊婦検診にかかる費用の一部を自治体が負担してくれるんだって』『へー、じゃあ子供作ろっか』というわけにはいかないでしょう。このことだけでより子供がたくさん生まれるとはちょと考えにくい。
しかし元々子供を育てようとしていた人たちのサポートになることは確かだと思います。サポートは手厚ければ手厚いほど効果があるんじゃないでしょうか。(妊婦検診の助成額だけで言えば)大阪はもっとも子供を生むのに適した土地ではない、ということになりますね。
生まれ育った大阪を離れて2年くらいになりますが、その間に知事が替わって、いろんなところで予算が削減されているようです。予算を削減しないといけないのは負債があるからで、負債があるのは今の知事以前の歴代の知事の責任と言えるでしょうけど。
いつかは大阪に帰って子育てしたいという望みを未だ捨て切れていない身としては、なかなか厳しい現実を見せられたような気がしました。
一昨年の夏に妻と結婚した直後に単身赴任で東京に出てくることになったのですが、その翌月くらいに大阪で新しく家を借りて妻と妻の妹が暮らし始めました。もともとひとりで暮らしていた妻の妹と、単身赴任でボクが出て行ったので一人残された妻とが一つ屋根の下に暮らすことになったのは、妻の会社の同僚の方から破格の家賃で一軒家を借りることが出来たからです。
その家がある場所は昔からずっと住み続けている人が多いところのようで、その家のまわりにもひとり暮らしをしているお年寄りの方が多くいました。そういう場所なので回覧板が回ってきたり、近所づきあいというほどでもないけれど、たとえば『あそこのおばちゃんはゴミの出し方にうるさい』とか(といっても悪気がある訳じゃなくて『だから気をつけた方がいいよ』くらいの調子なのですが)、東京のマンションでひとり暮らしをはじめたボクとは180度異なる住環境でした。大家さんである妻の同僚の方は仕事で日本にいないので、わからないことがあればこの人に相談すればいいということで一番最初に会わせてもらったのが向かいに住んでいるAさんでした。飼い犬と2人で暮らしているおばあさんで、娘さんの家族が近くの(高架線路越しに見える)マンションに暮らしているということでした。引っ越しに際して、ご近所にどのように・どこまで挨拶すればいいか(どうするのがこのあたりの流儀なのか)、ゴミの出し方、回覧板のまわし方、町内会のことなどなど、ご近所への挨拶の時には間に入って紹介までしてもらっていろいろとお世話になりました。引っ越しが終わればボクはまた東京で暮らすことになり、毎月のように大阪に帰りはしていたもののAさんと顔を合わせることもほとんどありませんでした。
妻の妊娠が分かったのがその年の秋で、年明けからの2ヶ月と出産前の2ヶ月半ほどを大阪の家で仕事をして過ごすことになりました。妻は出産間際まで働いていたので(妻の妹も会社勤めだから)日中家にいるのはボクひとり、夕方くらいに玄関のチャイムがなってインターフォンに出るとAさんが雨が降ってきたことを教えてくれ、慌てて洗濯物を取りこんだというようなこともありました。話し込むという機会はあまりなかったけど、子供が出来たことを報告したら喜んでくれていたし、去年の夏に子供が生まれたときも連れて行って見てもらいました。子供が生まれたその月のうちにボクは東京に戻り、妻と子供は妻の実家の富山に里帰りしてしまったのでそれから1度も大阪に帰る機会がなく、もちろんAさんに会うこともありませんでした。
今朝、Aさんが亡くなったことを妻から聞かされました(妹から連絡があったそうです)。めちゃくちゃ親しくしていたわけでもないのに、昔住んでいた家のご近所さんが亡くなったことを引っ越してしばらく経ってから聞いただけではない残念さを感じています。はじめてお会いしたときから、最後にまさに妻たちが車で富山に向かって出て行き、そのあとでボクが新幹線で東京へ戻るために駅まで荷物を引いて歩くときに見送っていただいたときまで、Aさんはずっと元気でした。花に水をやる姿を何度となく見かけました。雑草が伸びていたので草むしりした方が良いと言われました。
どこか『大阪のおばあちゃん』というようなところがあったのかもしれません。ボクは実際に大阪に祖母がいますが、また別の、そして妻にとってはきっとボクよりもそのように感じているのではないかと思っています。息子を連れて行ってもう一度見てもらいたかった。
ご冥福をお祈りしています。
今日は妻が日帰りで実家の富山での幼なじみの結婚式に出席するために子供とふたりで留守番する日でした。4時半起きで始まった一日でしたが、先ほど子供を寝かして一段落ついたところです。
昨日の夜から雨も降っていたしとにかく風が強くて、今朝になっても天候は変わるどころかむしろ悪くなっているくらいで、羽田から富山へ飛行機が飛べるのだろうかと、もし飛べたとしても危険なフライトになるんじゃないかと心配しないわけにはいかないように、5時過ぎに妻が出て行ってからも強風が窓を打ち付ける音に意識を奪われないわけにはいかないのでした。妻が出て行ってから離乳食を作って(といっても妻が作って冷凍してあるのを電子レンジで温めるだけ)食べさせて、昨日の金曜日に病院でもらってきた蕁麻疹の薬を飲ませました。最初に妻が気づいたのは木曜日の夜にお風呂に入れた後だったのですが、両腕両足に数箇所蚊に刺されたような赤い腫れが出来ていてそれはしばらくしたら消えたそうなのですが(写真に撮ってあったのを見たら結構腫れていた)、翌金曜の朝にもまた同じような腫れが出ていたので妻が病院に連れて行ったのです。そうすると蕁麻疹だと言うことで飲み薬をもらってきたのでした。特にこれという理由もなく(これを食べたからだとかいうこともなく)蕁麻疹というのはかかったりするものらしいので、薬を飲ませてしばらく様子を見ることになりました。
朝の5時台に朝食(離乳食)を食べ終えた息子がバウンサーに横になってミルクを飲んでいる間にボクも朝食を取り、前の日に妻が荷物を片付けて子供が遊べるようにプレイマットを敷いてくれた隣の部屋で子供と遊び、そのうち眠そうになってきたので子供を寝かしてボクも一緒に眠りました。今日はだいたいそのようなことの繰り返しでした。離乳食を食べさせる、ミルクを飲ませる、薬を飲ませる、遊ぶ、そのうち眠くなってくるので寝かせる、ボクも一緒に寝る。さすがに昼以降はボクは寝ませんでしたが、やはり子供が寝てくれると楽は楽なので、ちょっと昼寝させすぎたかもしれません。
一日子供に付きっきりで過ごして、あらためて子供の成長を感じさせられました。いろんなことに興味を持つようになったこと、ひとつの行動が次の行動に繋がっていく様、さっき経験したことが次の行動に生かされること、などなど。ハイハイもまだまだ未完成だけど少しずつ前進できるようになってきて、我が子の成長が嬉しい反面、ますます目が離せなくなるのでした。目を離すといえば、近頃では子供の視界から姿を消すと泣くようになりました。『誰かがいる、誰もいない』ということも認識できるようになったということでしょう。
今日はホントに子供とたっぷり遊ぶことが出来ました。めちゃくちゃ楽しかったです。
昨日は妻が鮫洲へ運転免許証の更新に行かないといけなかったので(大阪で数年前に事故ったので2時間の講習を受けないといけなかったので)朝一から昼過ぎまで子供とふたりきりになりました。これだけの長い時間を子供とふたりきりで過ごすのは初めてのことだと思います。7時過ぎに妻が家を出てから寝室からリビングへ子供を連れて行って、妻が用意してくれていた離乳食を子供に食べさせました。妻の姿が見えないとぐずったりしてしまうかなと思ったりしていたのだけどそういうこともなく、いつものように iTunes で童謡を流しながらの朝ごはん。人参と昆布だしの入ったおかゆを最初は美味しそうに食べていたのだけどだんだんペースが落ちてきて半分くらい残して食べなくなった。夜中に飲んだミルクの残りを哺乳瓶ごと渡しても飲まないので、リビングにプレイマットを敷いてしばらく絵本を読んだりして遊んでいたら食欲がわいてきたのかお粥の残りも食べてくれました。
抱いてあやしているうちに眠りそうになったら寝室に連れて行ってなんとか眠らせようとしました。その隙にボク自身も眠りたかったからです。9時前くらいに眠らせたら20分くらいで泣き出したので再びリビングで遊んでるうちに床に横になっていたらうとうとしてしまいました。ひとりであやしたり、ひとりで眠らせたり、ひとりでミルクを作って飲ませたり、ひとりで離乳食を食べさせたり、ひとりでおむつを替えたり、どれも初めてやることではないのだけどこれらのことを毎日ひとりでやってくれている妻に感謝しないといけないなとあらためて思いました。
お昼にまた眠そうになってきたので寝室に連れて行って眠らせようとしたら今度はなかなか寝付けないようで抱いてあやしていたのだけど、立って抱いているのがだんだんしんどくなってきたので仰向けになったボクの体の上にうつぶせに寝させたら眠ったので、40分くらいそのままの状態で、胸の上の子供の寝顔を携帯電話のカメラで写真に撮って妻に送ったりしていました。そのうち妻が帰ってきたので子供をリビングに連れて行ってお留守番の完了となりました。
午前中だけでものすごく疲れてしまったのですが、昨日は少し機嫌が悪かったのかどうか、床に座らせたり寝かせたりするとぐずり出すので抱いている時間が長かったと思います。最近は抱っこして欲しいと態度で示しているとボクが(勝手に?)思っているような仕草を示すようになったようで、それはとてもうれしいです。抱っこして欲しいってことは信頼の証でしょうからね。たださすがにずっと抱いていると体は疲れてきます。もちろん目の前で泣かれるとボクの体の疲れなんて二の次になるわけですが。
実は昨日の半日は来週の予行練習でもありました。来週土曜日に妻の地元の富山で幼なじみの結婚式があって、日帰りで行くことになっているのです。朝一の飛行機で行って最終便で帰ってくるので本当に丸々1日を子供とふたりきりで過ごします。昨日は実現出来なかったけど次は天気が良ければ出かけたりもしたいなと思っています。ボクの方もひとつひとつ、子育てスキルを上げていかないといけません。
そういえば下の歯が生えてきて、今は下の前歯が2本だけ白いのを覗かせています。口の中に溶けてなくなりそうな角砂糖が2つ残ってるみたいな感じですが、指を噛まれると(ボクが噛まれるのは指くらいです)生えてなかった時と比べて格段に痛い。これまでは笑っても歯茎しか見えなくてまるでおじいちゃんみたいやなと思っていたのが、今では2本だけ覗かせているのがまるで出っ歯みたいでおもしろいのです。『もっと歯が生えたらもっといろんなものが食べられるんやで』と大阪弁で話しかけております。
はやいもので3月になりました。
先月は2回しかブログを書きませんでした。妻と子供との新しい生活をスタートさせたのだし、荷物の整理に伴うこと(処分した物品に纏わるエピソードなどなど)、新調した家具に伴うこと(品定めから実際に買いに出かけた際に遭遇した出来事、子供を寝かしつけながら家具を組み立てたことなどなど)、妻との会話や子供と遊んでいて気がついたことなど、書く(べきだと自分で思うような)ことには事欠かなかったはずなのに、2回しか書きませんでした。
先月の最初の週末に妻と子供が引っ越してきてから今日までの間に、家具やカーテンの生地などを求めて IKEA に3回(妻は平日にも1度行ったので4回)足を運びました。週末ごとに何かを組み立てていたような気がしますが、この週末に本棚とソファを組み立ててようやく一段落。コーヒーテーブルは買わないといけませんが、しばらくは既存の荷物の整理に時間を費やすことになりそうです。とりあえず段ボール箱3つ分の本とCDは処分しました。
昨日は午前中にソファを組み立て終わって、昼ごはんを食べてからくつろいでいたら早速ソファでうとうととしてしまいました。夕方くらいに少し離れたところにあるスーパーマーケットまで(川沿いを歩いて)散歩がてらに出かけようと準備をしていたら、家を出る段になって雨がぱらついてきたのでまっすぐスーパーだけに行くことにしました。そこで隣の隣の駅に住んでいる会社の同僚にばったり出くわすというハプニングがあり、目当てにして来たタイムサービスの卵は売り切れていて、料理酒も小麦粉も分量の多いお得なものは悉く売り切れていました。でもまあ初めてくる店だったのでどういう感じかを見られて良かったと妻も言ってたのでよかったです。
週末は子供とお風呂に入っています(平日は帰りが遅くて難しいので)。先々週くらいにガーゼハンカチに空気を含ませてお湯の中で泡をぶくぶくさせたら不思議そうな顔をして見ていました。最初はボクが泡を出すのをただ見ていただけだったけど、次の日は自分で触ってみて泡を出していました。お風呂ではおとなしくて髪を洗うときには泣くこともあるのだけど、このぶくぶく遊びだけは『なんだろう』というような顔をしてじっと見ています。
夜ごはんには妻の叔父さんが送ってくれたラーメンを食べました。2人前ずつ何種類か入っていて、以前にも何度か送ってもらったことがあります。昨日は豚骨ラーメンを妻が選んで作ってくれました。妻がお風呂に入ってる間、ソファで寛いで読書しました(子どもの貧困)。
妻と子供と暮らすようになってから、お腹の風邪で寝込んだ先週末の二日間を除いて、毎朝7時前後に起きています。子供が6時から7時くらいに起きてしまうので、奇声を発して遊んでいるのについついつられて起きてしまったり、子供とリビングに行ってた妻が子供を連れて起こしに来てくれたりしてボクが起きるのがだいたいそのくらいの時間になるので、妻はもすこし早い時間に起きているようですし、寝る時間はだいたい同じなのですが、夜中に何度か泣く子供にミルクを与えたりしてくれています。
朝は子供がまだふとんの上で遊んでいれば一緒に遊んで、もう妻がリビングに連れて行ってたら朝ごはんを食べながら子供に離乳食を食べさせたり、時間の許す限り抱いていろいろお話ししたりして、出かける準備をして仕事に行きます。妻が毎日パンとおにぎりを持たせてくれるのでお昼ごはんはだいたいそれで済ませてしまって、会社の近くの喫茶店で本を読んでいます。単身赴任の一人暮らしから家族での生活に変わって本を読む時間をどこで確保するかというのが大きな問題になりました。通勤電車の中と仕事の休憩時間と、それから平日は妻が子供をお風呂に入れるので(ボクが帰る時間では遅い)お湯に浸かりながら読んでいます。家具を揃えて荷物を片付けて一段落が付けば、眠る前にも少し読む時間が作れそうです。ともかく、定時に会社を出て家に帰っても早いときでは子供はもう寝てしまっているので、最近は残業しないで済むように業務時間内に急いで仕事しています。しかしまあ仕事というのはやればやるほど集まってくるものですね。どうやら急いでやろうがゆっくりやろうが関係ないようです :p
夜は家に帰ると妻が夜ごはんを作ってくれます。子供を寝かせて(家に帰ったときに寝てるのと起きてるのは今のところ半々くらいかな)、一緒に食事をして、お菓子なんかをつまみながら買わないといけないあれこれ、片付けないといけないあれこれ、その他のあれこれ、などについて話をし、ボクがお風呂に入っている間に妻は再就職を見こして通関士の資格取得に向けての勉強をしているようです。お風呂からあがってきても勉強を続けていて、ボクもネットを見たりなんかしながら、だいたい11時か遅くても12時までにはふとんに入って寝ます。
早寝早起きの生活がすっかり定着しました。それは歓迎するものです。
1月17日の夜にGIGAZINEのあの「阪神・淡路大震災」で本当は一体何が起きていたのか、その真実がよくわかるムービー集 - GIGAZINEというエントリーをみつけて、そこからリンクの張られたyoutubeの動画を見続けていた。ボクが東京に出てきたのはまだ1年半くらい前のことで、それまでは生まれてからずっと大阪に住んでいたので、1995年1月17日のことは今でもとても良く覚えています。
その瞬間、1995年1月17日午前5時46分に自分が何をしていたかというと、布団に入って眠ろうとしていました。どういう理由かは忘れたけど朝方まで起きていたようです。ちょうど布団に入ってうとうととしかけたところに激しい揺れが訪れ、はじめはそれが現実のものだとは思いませんでした。夢の領域に属するものだと感じたのですが、その揺れによって眠りから覚まされると部屋にあったタンスが激しく揺れていてその上に載せていた物が落ちてきそうになっているのを支えようとしたものの、それが自分の頭の上に落ちてきたのを覚えています。特に重い物が載っていたわけでもなくて、部屋を出て台所を見ても食器が割れているとかいうようなことはありませんでした。大阪でも比較的東よりの地域だったので被害も少なかったのかも知れません。しかしそれまで経験したことのないほどの揺れであったことは確かだったので、そのまま眠るのをやめてテレビを見続けました。
阪神高速道路が橋桁ごと倒れてしまっている映像を見たときの驚きはそれ以前に経験したことのないものだったし、それ以降でいえば2001年9月11日にニューヨークのワールドトレードセンターに旅客機が突っ込む模様をテレビの画面で目撃したのと同じくらいの衝撃を受けました。どちらの映像を見たときも、そのようなことが現実に起こりうるのだという可能性を自ら考えてこなかったことに対する不甲斐なさと、それでは一体誰がこのような事態を想定できて、一体どのような対策を講じることが出来たのかという無力感と、単純にそれまでフィクションの中でしか起こらなかった事態・見たことのない映像を前にした興奮とに襲われた記憶があります。震災の約2ヶ月後に起こった地下鉄サリン事件の映像もテレビで見てはいましたが、一体東京で何が起こっているのだと思ったものの、不甲斐なさや無力感といったものには襲われませんでした。その代わりに(というのも変だけど)それからしばらくの間、大阪で電車に乗っていると突然不安感に襲われて気分が悪くなり、途中の駅で休むというようなことを経験することにはなりましたが。
震災後、何度となく神戸の街にも足を運びましたし、ルミナリエにも何度か行きました。震災直後にも神戸には足を運んだのですが、まだ傾いたままの建物を実際に目にもしました。中学3年生の冬にメリケンパークを訪れて以来、次にメリケンパークを訪れたのは震災後でした。そこには以前にはなかった震災被害のメモリアルパークがありました。
東京に出てきて1年半あまりが経ちますが、大きな地震が起こるとしきりにいわれています。阪神・淡路大震災という未曾有の大被害から学ぶべきことは、日頃から地震対策を怠らないということではないでしょうか。たとえば非常食、携帯電話などの通信網が機能しなくなったときに家族と落ち合う場所を決めておくこと。
あの震災から14年が経って、あのときの映像を夜中に一人で見ていると、あのときには感じなかった思いが芽生えてきます。倒壊した家屋の下敷きになった家族を助けられないことの無力感と苛立ち、諦めの声の裏にある重い感情。6400人以上の死者を出したこの未曾有の災害からボクたち生き残ったものは学び取り、対策を立てなければなりません。国・自治体といった行政レベルと、それからもちろん各家庭レベルでもです。
このようなことを書いているボク自身も現時点ではまったく何もしていません。非常食、懐中電灯、発電式のラジオ、簡易医療セット、そのようなものを揃えるところからはじめようと思います。
新年おめでとうございます。
年末年始を妻の実家の富山で過ごしています。とても寒くて雪が積もってあたり一面真っ白な中で息子とたくさん遊ぶ日々を送っていたらあっという間に年が明けていました。本年も greenplastic.net をよろしくお願いします。
年末に1年を振り返らなかったので簡単に。
2008年はなんといってもまず息子が誕生した年としてこの先も記憶されることでしょう。ちょうど1年の真ん中の7月1日に生まれたので年の前半は誕生への期待、後半は成長への期待とともに見守り続けた年でした。大阪で生まれてすぐに妻の実家の富山で暮らすようになった妻子と東京での単身赴任を続けてきたボクですが、ようやく2月から東京で家族揃って暮らす目処が立ちました。
子供の成長には驚かされます。11月末に過ごして以来のこの年末年始なのですが、この1ヶ月での息子の成長には目を見張るものがあります。まわりの大人のアクションに対して(機嫌が悪くなければ)笑顔で反応するようになったし、手にしたものは何でも口に入れるようになりました。ボクの顔ですらつかんで口に入れようとします。指を口に入れられたときにはそこに近々生えて来るであろう歯の予感が感じられました。
クリスマス・イブにはじめて寝返りとお座りが出来るようになった息子はとても元気です。今日はちょうど生まれて半年なので(ハーフ・バースデイなんて言葉で写真屋からは宣伝のはがきが届いてましたが)朝起きたときに『おめでとう』と息子に言いました。新年と生まれて半年おめでとう、と。
一緒に暮らすようになれば妻と共に子育て出来るのでそれが今から楽しみです。仕事の方もいろいろと頑張らないといけないのですが、家庭とのバランスが狂わないように気をつけながら仕事に励みたいと思います。目下の案件では使用しないプログラミング言語の勉強をする時間を(業務時間内から)捻出することを念頭に置いています。それとは別にプライベートでも資格等の勉強を定期的に続けたいなと思っています。3月に受けるつもりの(まだ勉強をはじめていない)TOEIC を皮切りに。それから近所の図書館でたくさん本を借りて読みたいとも思っています。
また、社会へのより積極的な働きかけもしていきたいと思っています。抗議活動やデモ行動、困っている人・苦しんでいる人に対して自分が何が出来るのか、たとえば、職を失って住む場所もなくなった非正規雇用の人に対して何一つ関わることなく行動を起こしていないのは信念に反するのではないかと自問しています。自分に何が出来るのか具体的にはまだ分かりませんが、出来ることからひとつひとつ動いていきたいと思っています。
土曜日に引っ越しました。引っ越し屋さんを頼もうかとも思っていたのだけど、同僚の方が手伝ってくれると言ってくれたので、レンタカーでトラックを借りて自分たちで荷物を運ぶことにしました。それで、平日の夜にスーパーマーケットなんかで段ボール箱をもらってきてちょこちょこと荷造りを進めておりました。
荷物の総量も自分が想像していたより多かったし、部屋から荷物を運び出しトラックに積み込むのにも思っていたよりも時間も労力もかかりました。ようするに甘く考えていたということなのでしょう。それと、引っ越し屋さんはすごいということの2点しか思いませんでした。すべての荷物を積み込むことが出来たのは、3次元空間を駆使して高密度に荷物を配置してくれたnaeさんのおかげです。そして台車を駆使してマンションの5階からひたすら荷物を運んでくれたM君のおかげです。トラックで新居に到着すると、ボクはまず駅前の不動産屋へ家の鍵を受け取りに行きました。その間に今度ご近所さんになることになった同僚のMさんが自転車で差し入れを持って来てくれていました。ちょうど東京ガスの人が来てくれていて、手伝いに来てくれた同僚のみなさんに家の中を見てもらいながら、東京ガスの立ち会いも同時に進めました。昼から飲まず食わずで働き続けてくれたチームのみんなとリビングでMさん差し入れの鯛焼きをいただきました。しばらく休んでからのトラックから荷物を下ろす作業は、先ほどの積み込む作業とは比べものにならないくらいに速やかに進みました。オートロックのあるマンションの5階からエレベーターで荷物を運ぶのに比べると、新居はトラックを止めた道路沿いの1階だったので早い早い。荷物を運び入れる途中にNTT東日本の人が来て光ファイバーの工事をしてもらいました。
M君と机を運び込むのに苦労したりしながらも、とりあえずその日の夜に眠れる準備だけをしてからレンタカーを返しに向かいました。自転車で来てくれたご近所のMさんとは別行動で、それぞれ蒲田に向かいました。トラックを返したあとで合流して、打ち上げ会場の餃子屋さんへ。蒲田で美味しいという餃子屋へ行ったのですが、ホントに美味しかったです。
次の日、水道とガスの停止に立ち会うのと忘れ物を取りに行くために昼から旧居に行ったのですが、時間があったので蒲田にある前日とは別の店で餃子を食べました。休みの日の昼から焼き餃子と水餃子とビールを堪能しました。結局、旧居の立ち会いは必要がなくて忘れ物を取って帰ってきただけになったのですが、帰りに蒲田で同僚のMさんとばったり出くわしました。電車で2駅くらいのご近所さんになった会社で向かいの席のMさんとは、休みの日に地域の大型スーパーで出くわすかもと冗談半分に言っていたのですが、引っ越しの打ち上げに一緒に餃子を食べたその次の日にもうばったり出くわしているということは、この先はたして何が起こるというのでしょうか。同じ鉄道路線に引っ越したからといってそうそう出くわすものでもないでしょう?
お隣さんにも菓子折を持って挨拶に行きましたが、感じの良いおばさんで安心しました。そう伝えると妻も安心していました。
東京に出てきてからのこの1年5ヶ月は腰を落ち着けるということがありませんでした。東京で暮らしていたマンションはいずれ妻と一緒に暮らすようになると出て行く場所であり、妻の妊娠とともにボク自身がそこを離れ不定期に大阪で暮らすようにもなってますます自分の居場所が拡散していったのです。そのような経験ははじめてのことでした。
2月に妻と息子が引っ越してくるまではしばらく単身赴任が続きますが、それからはボクたちはここで本格的な子育てを行うことでしょう。そして子育てを通してボクたち自身も育てられるでしょう。そのように腰を落ち着けるには良い場所を見つけることが出来たのではないかと思っています。
ここのところ一生懸命に大江健三郎を読んでいたのですが、一番最近は燃えあがる緑の木 3部作を読みました。
もうすっかり大江健三郎の文体に対して身構えることもなくなったような気がします。3部作ということでいざ読み始めようという時には『これからたっぷり読めるんだ』という喜びからくる興奮があったように思います。と同時に『長丁場になるぞ』という不安もあったことでしょう。不安が潜んでいるからこそ喜びが興奮という姿を借りて現れてきたのではないかと思うからですが。
小説を読むということはひとつの体験で、おそらくそれはけして他人とは共有され得ないものだと思っています。それがたとえ『あらすじ』みたいな小説であっても、それを読む体験はそれぞれの人に固有のはずです。なので燃えあがる緑の木という小説がボクにとってはどのような体験であったかということを書くことになるわけですが、第1部では人々の愚かさに冷笑を、第2部でもその感覚は幾分ひきずっていましたが詩や宗教の話題が多くなるにつれて本当のところではこれらのことを自分は理解していないと思いながら読み進めていました。第2部から第3部にかけて、なぜ人々はギー兄さんを救い主とした教会に集まるのだろう、なぜギー兄さんを信じるのだろうと思いながら読み続けました。ボクには最後まで自分が教会に参加するだろうという動機は見つかりませんでした。ただ、ギー兄さんが最後に言われた言葉に勇気づけられた気がします。
それはこのような言葉でした。
本当に魂のことをしようとねがう者は、水の流れに加わるよりも、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞれ自分ひとりの場所で、「救い主」と繋がるよう祈るべきなのだ。
燃えあがる緑の木〈第3部〉大いなる日に (新潮文庫) P370
そのようにして『救い主』はその輪郭を明らかにしてくるのだと続けられていますが、『それぞれ自分ひとりの場所で』『祈るべきなのだ』というギー兄さんの言葉に、ボクはこの3部作を読んできてほとんどはじめて驚きと興奮を感じました。やはりボクはギー兄さんを信じて人が集まってきた教会には違和感を感じていたのかもしれません。自分なら絶対にそこへは行かないだろうという……
ギー兄さんがどのような思いでそのようなことを口にしたのかはわからない。ボクにとっては『救い主』も神も存在しないも同然で、でもそれぞれがそれぞれの場所で存在しない何かに向かって『集中』するべきなのだ、でもそうするのには個の強さがいる、と思い返したのでした。
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東京に戻ってきて、あっという間に10日が過ぎました。この間、会社関係では事務所の移転があり(久しぶりの出社初日にいきなり荷物を運ばされた。といっても近所なので半日仕事でしたが)、同僚の皆さんと楽しいお酒を飲む機会があり(思いがけずお祝いを頂いたのでさっそくお返しの手配をした)、他にもお盆の帰省の電車の切符を購入したり、アマゾンで本棚を買って組み立てたり(それで手の皮が剥けたり)、復旧サービスに出していたmacbookの壊れた内蔵HDDのデータを受け取ったのでどの程度の写真が復旧できたのか確認したり(まずまず復旧できていたと思うけど、もはや全体を思い出せないからどの程度失われたのかが把握できない。ともかく支払った金額と失ったであろうデータのことを考えるとよい教訓にはなった)、バックアップ用に買った外付けHDDに新しくインストールした Mac OS X 10.5 のデータをバックアップするように設定したり、こうやって並べてみると実にいろんなことをしたんだなと自分でも思いますが、大阪で過ごしたこの数ヶ月と比べると実に物足りない生活だったと言えるでしょう。
週末はお盆の電車の切符を買いに行くついでに川崎に出て買い物をしました。結局、新書を2冊、偽善エコロジーと中村俊輔の察知力を買っただけで帰ってきました。その週末に2冊とも読み終えたのですが、まあまあでした。どっちも何回も同じことが繰り返し書かれていて、単に紙幅を稼ぐためだけなんじゃないかと疑ってしまったほどです。
- crossreview(クロスレビュー) » yosshi/偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書 (た-5-1))
- crossreview(クロスレビュー) » yosshi/察知力 (幻冬舎新書 な 4-1)
ところで、最近あまり眠ることが出来ません。あまり眠れないので常時とても眠いわけですが、仕事を終えて家に帰って食事も適当に済ませて今日は眠るのだと意気込んで布団に入っても眠ることが出来ないのです。昨日も9時くらいには布団に入ったのに眠る前に最後に時計を見たときには深夜の3時でした。今日も9時前には布団に入ってうとうとしたのですが、雷の音に目を覚ますと10時でそこからまた眠ることが出来ません。
明日は大阪から友人が上京してくるので夜に新大久保の韓国料理屋で飲む予定になっています。栄養をたくさんとってしっかり睡眠が取れればよいのですが。
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つい先ほど、妻から無事実家に着いたという連絡を2ヶ月ぶりに戻ってきたばかりの東京のマンションで受けました。その連絡を受けて、この10ヶ月から1年にわたるひとまとまりの出来事に一区切り付いたという感触があります。
5年ほど同棲していた妻と入籍したのが昨年の6月末、ボクが東京に単身赴任で出てきたのがその翌週の7月初旬、5年間同棲した大阪の家を引き払って妻の知り合いに借りた家で妻と妻の妹が暮らし始めたのが7月末のことでした。それからは隔週ごとに東京と大阪を交代交代にボクと妻が行き交う日々がはじまったのですが、妻の妊娠が発覚したのが11月のことだったと思います。それからはボクが隔週ごとに大阪に帰ることになり、年明けからは妻が安定期に入るまで大阪で仕事をさせてもらえることになりました。それで今年の1月から2月下旬までを大阪で働き、3月と4月を東京で働いたあとゴールデンウィーク明けからふたたび大阪で働くことになりました。なので今年の上半期は3分の2を大阪で過ごしたことになります。このような変則的な働き方を許可してくれた会社には感謝の念しかありません。おかげで元気な子供が生まれました。
妻のお母さんが出産の前日から仕事を休んで大阪に出てきてくれていろいろ助けていただきました。子供が生まれる前から、生まれたらしばらくは妻の実家で妻のお母さんやおばあちゃんに助けてもらいながら子育てをするという話になっていました。離ればなれになるのは寂しいだろうなと生まれる前から想像していたし、生まれたあとは毎日子供を抱くたびにこれがあと何日しか続かないのかと残りの日数を数えてしまっていたのですが、それでも子供が東京よりは富山で過ごした方が空気もきれいだし妻も周りに助けられるだろうから賛成なのでした。それで今日、妻のお母さんが運転する車で妻と子供は旅立ち、ボクは新幹線で東京に戻ってきたのでした。
昨年のちょうど今頃に妻と妻の妹と汗だくになって引っ越しをして(引越会社の人の方がもっと汗をかいてたけど)、その1年後にあらたに増えた1人とともに妻は大阪の家を出て実家に戻りました。1年前に3人で汗だくになって引っ越しをしたときにこのような結末を誰が予想したことでしょう。そう思うと、妻と妻の妹の生活のあるひとまとまりに終止符が打たれてそれぞれが新しい生活の中に入っていったのだなと思います。そんな彼女たちを見ていると少し取り残された感じがあって、ボクは基本的には東京で単身赴任をしていて定期的に妻(と子供)の元へ週末帰るという暮らし方に変化はありません。ボクが次に新しい生活を送ることが出来るのは家族3人で暮らすようになったときでしょう。ただ気持ちの上ではいろいろ変化があって、たとえこれまでと同じ生活であってもいろいろな局面を居心地の良いものにしたいなと思うようになりました。
今後、大阪に帰る機会は激減すると思いますが、将来的に大阪で暮らしたいという気持ちは変わっていません。なぜなら自分の子供が関西弁以外の言葉を喋ることにおそらく耐えられないからです。
先週の木曜日に妻と子供が退院して家に帰ってきてからは寝不足の日が続いています。最初の頃は夜中に子供が泣き出すたびにふたりでオムツを替えたりミルクを与えたりしていたのですが、それは週末だったので、平日になると妻がすべてやってくれています。それでも寝不足気味なのは覚えていないけど夜中に目が覚めているのでしょうか。ともかく週末の今夜はボクがミルクをあげてオムツを交換しました。これまで赤ちゃんにミルクをあげたこともなかったし誰のオムツを替えたこともなかったけど、この3週間弱でもうすっかり手慣れたものです。
生まれてくるまでは無事に生まれてきてくれるだろうかと不安だったけど、無事生まれてくれると今度は無事育ってくれるだろうかと心配の種は尽きません。きっとこれがこの先ずっと続くのでしょう。不安を上回る期待とか楽しみとともに。
週末は面会時間目一杯病院にいて子供を思う存分抱くことが出来ました。
土曜日は妻が発熱してしまったのでナースステーションに預けていた子供を病室ではなくロビーで見ていたのですが、2時間くらいしたら子供がぐずつきだしたので病室の妻のところに戻ってミルクをあげることにしました。妻の熱も下がっていたのでそのまま病室にいて、ボクが子供を見ている間に妻には仮眠を取ってもらうことにしました。母子同室ということなので夜中ぐっすり眠るというわけにもいかず、たった30分くらい眠っただけなのに久しぶりにすっきりしたというから大変です。その夜は無理をしないでナースステーションに子供を預かってもらい、妻には体を休めてもらうことにしました。それでも授乳の際には起きないといけないので朝までぐっすりというわけにはいかなかったようです。
日曜日は親や友人家族や妻のご学友が病院に来てくれました。ミルクを飲んだ時間と量、尿と便の時間などを毎日メモしているのですが、泣き出すとまずオムツの状態を確認して濡れていれば交換、抱っこしてあやしてもなかなか泣きやまないときはやっぱりミルクを欲しがっていることが多いのですが、ちょっとペースがはやかったりするときがあるので、そのときは何とか時間稼ぎするためにいろいろあやしてごまかさないといけません。抱っこして揺らしてみたり、背中とかをポンポンと叩いてみたり。オムツを替えるのも子供をあやすのもはじめての経験ですが、それでも少しは慣れてきました。それだけよくミルクを欲しがるし、よく飲むからその分オムツを交換する回数も多いのでしょう。
起きていて泣いていないときというのは基本的にはあまりありません。ミルクを飲んでいる最中か、ミルクを飲んだあと眠るまでか、あるいはあやすのに成功したときくらいのものです。そういうときに目を開けてあたりを怪訝な表情できょろきょろ見ていることがあります。天井を右から左へ何かを追うように見ていたりするのは照明を見ているのかな。
今日、ミルクを飲んだあとにいつものように少し前屈みに座らせて背中をポンポン叩いてゲップを出させようとしていたのですが、足の力が強いのか、ボクの右手に両手をかけた状態ですっくと立ち上がってしまいました。また、その状態で前方にがくんと垂れていた頭を持ち上げて天井の方を見上げていました。なかなか力強い子になってくれそうです。