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消えてゆくもの

 海賊戦隊ゴーカイジャーが放送終了となり、入れ替わりに特命戦隊ゴーバスターズが放送開始となって2週が過ぎた。3歳の息子は仮面ライダーフォーゼとゴーカイジャーが大好きで、フォーゼよりも先にゴーカイジャーを見始めたこともあってか、ゴーカイジャーのおもちゃは何種類か持っているけどフォーゼのは買っていないこともあって、寝るときに(全部は駄目と親が言うから)いくつかおもちゃをわざわざ寝室にまで持って行って、枕の下に入れて寝る。朝起きたら枕の下から取り出し、またリビングに持ってきて遊ぶ、というのを日々繰り返していた。
 そのくらいゴーカイジャーに夢中だったから、毎週日曜日の朝に楽しみにしていたテレビ番組が終わったらどのように悲しむのだろうか、もしかしたらゴーカイジャーが見たい見たいといって激しくぐずるのではないか、などと心配していたのだが全て杞憂に終わった。今ではすっかりゴーバスターズに夢中で、これまでは毎朝の登園時にゴーカイジャーの主題歌のメロディを口ずさみながら走ったりしていたのがゴーバスターズの歌じゃないと嫌がるようになり、先日ちょっとした悪戯心でゴーカイジャーのメロディを口ずさんだらぐずって道端に座り込んでしまった。
 子供というのはそのようにしてどんどん新しい物を取り入れていくのだろう。実際のところ、子供の心の中の様子まではうかがいしることは出来ないけれど。
 去年の春に区立の保育園が民営化になった際に先生が全員入れ替わりになって、息子のお気に入りだったO先生と離ればなれになるのが可哀想だなあと、また少し大袈裟に言えば息子の心に与える影響を心配してもいた。ちょうど下の娘の里帰り出産と時期が重なり、3月はじめから6月はじめまでを妻の実家で過ごしたので、久しぶりの登園はやはり不安だったようで最初の数日は毎朝僕との別れ際に泣いていた。でも数日経てばまた元のように友達と遊んでいた。それから少しして、保育園で催された夏休みに息子のお気に入りだったO先生が遊びに来て再会となったのだけど、息子はどこか照れくさそうな顔をしているだけだった。
 それまで心の中を占めていたものが消え、何か別のものが取って代わってその場所を占める。それでも心のどこか奥底に大事だったものの残滓が溜まっていたりするんだろうか。

嘘と承認欲求

 嘘をつくということについて考える機会があった。また、少し前に承認欲求について考える機会があって、自分のことを他人に認めてもらうために嘘をつく人っているよなあと思ったりしていた。僕はまあ嘘をついてまで他人に認めてもらいたいとは思わないと思う。そもそも他人に認めてもらいたいと思わないとまでは言い切れないけれど、でもたとえば出来ないことを出来るように装ったりとか、知らないことを知っているかのように語ったりとか、そういうところは(少しは相手によって変わってくるかもしれないけど)昔からずっと変わらなくて、分からないことの分からなさについて考えるのが楽しかったりする(『どうして分からないんだろう?』)。

 僕ももういい歳でいろんな人を見てきたけど、知らないことを知らないと言えない人というのは確実に存在しているし、そのようにして自分のことを他人に認めてもらおうとしているうちに、自分自身でも本当に知っているのか知らないのか分からなくなってくるんじゃないかと思うようになった。そういうのって良くあるし(知ったつもりになってる)、そのことに自分で気がつけないのなら他人に指摘してもらうしかないのだろうけど、中には他人のそのような指摘を受け入れることが出来ない人もいる。自分のことを非難されていると思い込んで攻撃的な態度に出たりする。

 僕はわりと若い頃に自分と他人とをすっかり分け隔てて考えていたので、どうせ他人に僕のことなんて分かるわけがない、逆も同様だと思っていたから、誰かに認めてもらいたいとかそんなことは今よりももっと思いもしなかった。その名残があるのか、たまに他人から自分に対する賛辞を聞かされるとどう反応して良いか分からなくなる。

 ということで、一生懸命何かに取り組んだ結果、他人に認められるというのは立派なことだと思うのだけど、嘘をついてまで(本当とは違う風に自分を装ってまで)他人に認められたいと思うのはちょっとどうかなと思う。あるいは、他人に認められなくならないように(簡単に言うと馬鹿にされないように)そうしているのかもしれない。まあ一時的に現実の自分から何歩か先に行かせてしまった自分にあとで必死に追いつこうとする努力とか取り組みがきちんと為されるのなら許容範囲だとは思うのだけど(でもそういう現場を目にするとこれまたどう反応して良いかわからなくなるのです)。

気がつくと仕事のことを考えている

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 気がつくと仕事のことを考えている。具体的な個々の仕事の内容(やらないといけないこととか)についてではなく、仕事とは自分にとって何なのか、この先仕事とどのように向かい合っていくのか、などというようなことから派生して、この会社で自分が何をすべきなのか、立場的にも周りの人間にどのような影響力を行使すべきなのか、すべきでないのか、どのようにしてこのメンバーでこの世界と渡り合っていくのか、どのようにすればこの世界と渡り合っていけるのか、そしてどのようにこの世界と渡り合っていけるようにするのか。本当に考えることは多いし暇つぶしには事欠かないでいる。
 残念ながら、この資本主義社会では何もせずにいるとあっという間に取り残されてしまう。この世界には、それぞれ何のためなのかは知らないけれど、労働市場における自分の価値を高めるための努力をしている人はたくさんいる。周りの人間がそのような努力を続けている中で何もしないでいるということは相対的に自らの価値を失っているということになる。それこそ秒単位で。
 まずは好むと好まざるとにかかわらず、世界はそのように動いているのだと認識しなければならない。もちろん、そのような世界を好むか好まないかは個人の自由だと思う。どちらかといえば、ボクだってそんな世界は好まない。秒単位で自らの労働市場における価値を高めていかなければならない世界なんてボクは好まない。そもそも資本主義だって嫌いなんだから。だけれどここはそういう世界なのだということはひとまず受け入れなければならないし(だって誰に石を投げればいいのかすらわからない)、受け入れた以上は何もしなければ自分の価値が下がっていくのだということも認識しなければならない。残念ながら、ボクたちは木になる果実を食べていれば一生暮らしていける世界には生まれつかなかったのだ。
 かといって悲観的になる必要もない。努力すればいいのだ。その努力が報われるかどうかはわからない。そもそもボクにはジェット機の設計をする才能はなかった(かもしれない)。けれども少しは人を楽しませる才能があって、少しは新しいものを取り入れる才能があって、少しは業務の進行を管理する才能があったのかもしれない。また、才能のなさは飽くなき努力によって穴埋め出来ることだってあるのかもしれない。そもそもすべてを才能で片付けること自体が努力というものを軽んじている失礼な考えなのかもしれない。きっとそうだと思う。
 どうしてこの仕事をしているんだろうと思う。まあでもウェブは好きだし、新しい物事に触れるとワクワクする。ただ、好きでワクワクするから続けているんだろうかと自らに問いかけると答えはそうでもない。
 気がつくと仕事のことを考えている。けれどもう少し家庭のことを考えるようにしようと思う。たとえば金曜日の夜に残業して家族が寝静まったあとに帰ってきた台所では。

ブログを書いた

 久しぶりにブログを書いた。長年続けてきたこのブログを辞めるつもりはまったくないし、いつも頭の片隅に『最近書いていないな』という思いがあって、でもいざ書き始めようとするとうまく言葉で表現できなかったり、うまく表現できたとしても差し障りがあったり、そもそも心が荒んでいて誰かを罵倒しそうになったりと、それなら書かない方が良いんじゃないか、無理して書くこともないんじゃないかと軽い気持ちでいました。
 それは今でも変わりません。このブログ自体が、自分のペースで書きたいときに書きたいことを書く、ということをモットーに取り組んでおりましたので、もう1ヶ月以上書いてないから何が何でも書かないといけない、というような思いにはならないわけです。
 しかしまあ、約1ヶ月ぶりに書きました。久しぶりに書いてみて思ったのは、やはり自分のブログがあって良かったなあということでした。自分が好きなときに好きなことを書けて、またそれを読んでくれる人が何人かはいる、ということの心地よさ。自分の言葉、自分の文章がその輪郭にすっぽりと嵌る容れ物のような。
 あちこちでごちょごちょ書いたりしていたし、中にはブログというよりは創作に近い物もあるのでそれはそれで続けていきたいと思うけど、ここはもっと気兼ねなく生活の有り様を書いてたところだったなあと思ったりしました。

 1ヶ月ほど前に妻に聞いた話がとても面白かったので印象に残っている。
 会社のお昼休みに同僚の人たちとお弁当を食べているときに、子供の頃は良かった、何も考えずに毎日遊んで暮らしていた子供の頃に戻りたい、という他愛もない話題になったそうな。それでその場にいた3人のうちで最年少だった妻だけが『そうは思わない』派だったそうで、残りの2人に大変驚かれたのだという。
 妻が言うには、たしかに子供の頃は何も考えず苦労も知らずに毎日を楽しく遊んで暮らせたかも知れない、しかし大人にならないと経験できないことはたくさんあって、それはときには苦労を伴うかも知れないけれど、その分喜びも大きいのではないか。たしかにそうかもしれないとそこでボクは思う。すべてが自分の望み通りにいくことがはたして幸せなのかというと、そうではない場合もあるだろう。たとえば、ボクは大学を出てはじめて勤めた会社では大変苦労をしたと今でも思っているけれど、あのときの苦労が今の仕事に対するスタンスの基礎となっているとも思っている。他にも理由はあるけれども、苦労を通して何人かの素晴らしい人たちと出会うことも出来た。もしあのときボクがより働きやすい他の会社を選択することが出来たなら、きっとそっちを選んでいたと思う。ときには必要な苦労であるとか、苦労の先にあるであろう喜びであるとかいったものを常に望むことが出来るほどにボクは立派な人間じゃない。
 話を戻すと、『何も考えずに毎日遊んで暮らしていた子供の頃』に妻が戻りたいと思わない理由は2つあって、それは現在の意識を持ったまま戻れるのかどうかということ。もし現在の意識を持ったまま戻れたとしても(妻の同僚の人たちもおそらくこっちだと思う)、大人の意識を持ったまま周りの子供たちと本当に毎日楽しく遊んで暮らすことが出来るのかどうか、最初の何日かは楽しいかも知れないけど子供の遊びなんてすぐに飽きるし、親からは干渉されて自由さなんてもちろんないし、楽しいはずがないという理由がひとつめ。もうひとつは、もし現在の意識を持たずに戻るのだとすれば、戻ったという自覚すらない状態で1回目の子供時代と何ら変わらないんじゃないか、だとすればそれは本当に戻ったことになるのだろうか、というものだった。
 何も考えずに毎日遊んで暮らしていた子供の頃に戻りたいという現代ストレス社会で闘う労働者なら思い至らない日はない他愛もない話題について、場合分けをして真剣に検証している妻が面白くて悔しいのだった。

息子の2歳の誕生日に思うこと

 早いもので今年も半分が終わり、息子が2歳になりました。本当に早いものです。
 最近は息子を毎朝保育園に送っていくのにベビーカーを使っていません。荷物が多いときには使いますが、基本は散歩がてら一緒にてくてく歩いて行ってます……ベビーカーをやめた最初のころはそうだったのですが、先週くらいから家を出て数メートル歩くともう抱っこを求めてきます。それでも当初は途中で降ろしたらしばらくは歩いてくれてまた抱っこを求めてくるということの繰り返しだったのが、ここ数日は一度抱っこすると降りてくれなくなって、それで家から保育園までほとんど抱いたまま連れて行っています。
 息子はとにかく外に出るのが好きでいつも良く『さんぽ、さんぽ』と言っては外に出たがるのですが、どうやら彼にとっての『さんぽ』には『歩く』ことは含まれていないようです。だって毎朝『さんぽ、さんぽ』と言って外に出たがるのに、いざ保育園に行く段になって外に出ると数メートル歩いただけで『だっこ、だっこ』と言って抱っこをせがんでくるのですから。
 まあスキンシップの観点からはボクは喜ばしく感じているのだけど、自分の荷物(カバンとかお弁当とか)と保育園に持って行く荷物(息子のもの。エプロンとかタオルとか毎日交換しないといけないものから、衣類の補充や最近では水遊びがはじまったのでバスタオルとか)を抱えて息子を抱くとなるとけっこうな負担になります。特に最近は蒸し暑いので、それらの荷物をすべて抱えて保育園まで15分から20分くらい歩くとなると汗だくにならないわけがない。それでも、いくら汗だくになろうと両腕が疲れようと腰が痛もうと、息子を抱きかかえて顔を近づけた状態でお話をする時間は何物にも代え難いのもまた確かなのです。けして苦痛なわけではありません。もうちょっと歩いてくれたらいいな、その方が運動にもなるよ、と思いはするけど。
 しかしこういう何もかもがこの時期にしか経験できないのだと思うと、いつかこういう何もかもが失われてしまうのだと思うと、悲しさに捕らわれてしまうことが間違ったことなのだと分かっていても避けることが出来ない。この先もその時々の関係性の中で、その時々にしか経験出来ない時間を貴重に、いつの日か息子にこういった何もかもを告白できる日が来ればなあと思うのでした。そのためにも忘れないように書き留めておかなければと思います。

スーパーマンはもういない

 この間ふと思い出したのだけど、かつて自分は『スーパーマンじゃない』と宣言した人がいた。その人はボクがはじめて勤めた会社のたしか係長で、といっても係長も課長もへったくれもないような会社だったのだけど、あまりの重労働とへったくれもない上司の理不尽さに耐えかねてそのような宣言を残して会社を辞めたのでした。
 あれから10年弱の時が過ぎ、実に様々な人たちを見てきて思い続けてきたことは、どこかから突然現れてボクを(あるいは状況を)救ってくれるスーパーマンはどこにもいないということだった。もちろんボク自身もスーパーマンではない。スーパーマンなどどこにもいなくて、ただの『マン』がいるだけ(スーパーパーソン、パーソン、というべき?)
 しかしそのような見解に至ると物事は単純になる。自分やこの状況のために誰かが何かをしてくれるという期待をそもそも持たなくて済むのだから、余計なステップを踏むことなく最初から意味のあることに取り組むことが出来る。それはつまり、自分やこの状況にある問題を解決するためには自分で何とかするしかないということだ。実在するのかどうかもわからない誰かに期待する時間があれば、特にスーパーでもないわけだけどそれなりに付き合いの長い知恵を絞っている方が余程有益なのではないかな。
 ところで、ボクの最近のテーマは『相談相手を見極める』です。

妊婦検診の助成

 妻が子供を妊娠したのがわかったのが一昨年(2007年)の秋のことでした。それから去年(2008年)の夏に出産するまでの妊婦検診には毎回付き添いました。そのときすでにボクは東京に単身赴任していたのですが、はじめのうちは月に一回、途中から隔週で受けた検診を毎回土曜日の午前中に予約して、検診のある週はかならず金曜日の夜に新幹線で大阪に帰るようにしていました。
 もちろん毎回の検診にはしっかりとお金がかかりました(東京・大阪の往復の交通費も)。

 妊婦健診の助成、自治体で差 1人1万円〜12万円 - 政治

 いつの間にか妊婦検診に助成金が出るようになっていたのですね。都道府県ごとの平均額を見てみると、大阪府は助成額が一番少ないみたいです。妻が長男を妊娠していたときには助成そのものがありませんでした。だいたい毎回五千円支払っていたと思います(妻に聞いてみたら、五千円くらいのときもあれば一万円くらいのときもあったようです)。妊婦健診は『出産前に14回程度受けるのが望ましいとされ』ているようなので、けっこうな額になりますね。でも助成のようなものは何もありませんでした(確定申告の時に家族の医療費をまとめて控除を受け取ったくらいです)。
 これまで子供を育てようとしなかった人たちのうちどれだけの数の人が、助成金が出ることで方針転換し子供を作って育てようとするようになるのかは想像も付きません。もちろんないよりはあった方が良いのはお金の常ではあるわけですが、『妊婦検診にかかる費用の一部を自治体が負担してくれるんだって』『へー、じゃあ子供作ろっか』というわけにはいかないでしょう。このことだけでより子供がたくさん生まれるとはちょと考えにくい。
 しかし元々子供を育てようとしていた人たちのサポートになることは確かだと思います。サポートは手厚ければ手厚いほど効果があるんじゃないでしょうか。(妊婦検診の助成額だけで言えば)大阪はもっとも子供を生むのに適した土地ではない、ということになりますね。
 生まれ育った大阪を離れて2年くらいになりますが、その間に知事が替わって、いろんなところで予算が削減されているようです。予算を削減しないといけないのは負債があるからで、負債があるのは今の知事以前の歴代の知事の責任と言えるでしょうけど。
 いつかは大阪に帰って子育てしたいという望みを未だ捨て切れていない身としては、なかなか厳しい現実を見せられたような気がしました。

『阪神・淡路大震災』を思い返して

 1月17日の夜にGIGAZINEあの「阪神・淡路大震災」で本当は一体何が起きていたのか、その真実がよくわかるムービー集 - GIGAZINEというエントリーをみつけて、そこからリンクの張られたyoutubeの動画を見続けていた。ボクが東京に出てきたのはまだ1年半くらい前のことで、それまでは生まれてからずっと大阪に住んでいたので、1995年1月17日のことは今でもとても良く覚えています。
 その瞬間、1995年1月17日午前5時46分に自分が何をしていたかというと、布団に入って眠ろうとしていました。どういう理由かは忘れたけど朝方まで起きていたようです。ちょうど布団に入ってうとうととしかけたところに激しい揺れが訪れ、はじめはそれが現実のものだとは思いませんでした。夢の領域に属するものだと感じたのですが、その揺れによって眠りから覚まされると部屋にあったタンスが激しく揺れていてその上に載せていた物が落ちてきそうになっているのを支えようとしたものの、それが自分の頭の上に落ちてきたのを覚えています。特に重い物が載っていたわけでもなくて、部屋を出て台所を見ても食器が割れているとかいうようなことはありませんでした。大阪でも比較的東よりの地域だったので被害も少なかったのかも知れません。しかしそれまで経験したことのないほどの揺れであったことは確かだったので、そのまま眠るのをやめてテレビを見続けました。
 阪神高速道路が橋桁ごと倒れてしまっている映像を見たときの驚きはそれ以前に経験したことのないものだったし、それ以降でいえば2001年9月11日にニューヨークのワールドトレードセンターに旅客機が突っ込む模様をテレビの画面で目撃したのと同じくらいの衝撃を受けました。どちらの映像を見たときも、そのようなことが現実に起こりうるのだという可能性を自ら考えてこなかったことに対する不甲斐なさと、それでは一体誰がこのような事態を想定できて、一体どのような対策を講じることが出来たのかという無力感と、単純にそれまでフィクションの中でしか起こらなかった事態・見たことのない映像を前にした興奮とに襲われた記憶があります。震災の約2ヶ月後に起こった地下鉄サリン事件の映像もテレビで見てはいましたが、一体東京で何が起こっているのだと思ったものの、不甲斐なさや無力感といったものには襲われませんでした。その代わりに(というのも変だけど)それからしばらくの間、大阪で電車に乗っていると突然不安感に襲われて気分が悪くなり、途中の駅で休むというようなことを経験することにはなりましたが。
 震災後、何度となく神戸の街にも足を運びましたし、ルミナリエにも何度か行きました。震災直後にも神戸には足を運んだのですが、まだ傾いたままの建物を実際に目にもしました。中学3年生の冬にメリケンパークを訪れて以来、次にメリケンパークを訪れたのは震災後でした。そこには以前にはなかった震災被害のメモリアルパークがありました。
 東京に出てきて1年半あまりが経ちますが、大きな地震が起こるとしきりにいわれています。阪神・淡路大震災という未曾有の大被害から学ぶべきことは、日頃から地震対策を怠らないということではないでしょうか。たとえば非常食、携帯電話などの通信網が機能しなくなったときに家族と落ち合う場所を決めておくこと。
 あの震災から14年が経って、あのときの映像を夜中に一人で見ていると、あのときには感じなかった思いが芽生えてきます。倒壊した家屋の下敷きになった家族を助けられないことの無力感と苛立ち、諦めの声の裏にある重い感情。6400人以上の死者を出したこの未曾有の災害からボクたち生き残ったものは学び取り、対策を立てなければなりません。国・自治体といった行政レベルと、それからもちろん各家庭レベルでもです。
 このようなことを書いているボク自身も現時点ではまったく何もしていません。非常食、懐中電灯、発電式のラジオ、簡易医療セット、そのようなものを揃えるところからはじめようと思います。

『チェ 28歳の革命』を見て考えたこと

 金曜の夜に仕事帰りに映画チェ 28歳の革命を見に行ってきました。東京に出てきてそういうこと(会社帰りに映画を見に行くこと)をするのははじめてのことです。しようと思えばいくらでも出来たはずなのに、気持ちの変化なのかそれとも作品に惹きつけられたのだろうか。
 ラゾーナ川崎にある109シネマズで見たのですが、9時15分からのレイトショーだと1200円なのです。7時半くらいに会社を出て8時前には着いたので、まず映画館で席を確保してから1階のフードコートで夜ごはんに盛岡冷麺を食べました。ごはんを食べても映画の時間までけっこうあるので喫茶店でコーヒー飲みながら読書できると予想していたのですが、無印良品や書店をぶらぶらしているとそんなでもなくなりました。なのでそのまま映画館に行ってベンチで本を読みながら待っていたらすぐに入場がはじまりました。金曜日のレイトショーを見に行く人は少ないのかも知れません。
 映画は1956年から1959年にかけてのキューバ革命を目指した闘争と、1964年のニューヨークでの国連総会での演説の様子が平行して描かれていました。闘争のシーンでは(山の中での単調なシーンが続いたあたりで少しうとうとしてしまったのですが)パレスチナのことを思い出さないわけにはいきませんでした。とくに革命軍が都市部に侵攻してから、市街地に隠れた革命軍に対して軍事政権が空爆を行い市民が巻き込まれている場面を見ると、市民が生活を送っている街中に爆弾が落ちてくることからの連想でイスラエルのガザ侵攻を思い出さないわけにはいきませんでした。
 映画を見て考えたこと。
 支配する者(虐げる者)と、支配される者(虐げられる者)がいるところで、虐げられる者が解放されるにいたる道がもし武力闘争しかないとしたら悲しい気がする。ただ、虐げる者はやはり武力を背景にして支配を行っているわけだから、支配する側に大きな転換がない限り、それに対抗しようとするとやはり武力を持って行うしかないのだろうか。
 ただ、今この時代に武力闘争は可能なのだろうかとも思った。支配する者の圧倒的な軍事力に対抗するのは難しい。イスラエル軍とハマースとの軍事力の差は圧倒的なので軍事力を前提とした武力による闘争は成功しないと思わざるを得ない。この映画を見ていると、支配される者が解放されるに至る道は武力闘争しかないのではないかと思うようになるのだけど、圧倒的な軍事力の差を前にするとそれはけして成功しないだろうと思わざるを得ない。
 ではどうすればよいのだろうか。それは虐げられている当事者だけに闘わせないことではないでしょうか。たとえ中東から遠く離れていようと、ガザで何がなされたのかということを知り、そしてそれに反対の声を上げなければならないのではないでしょうか。この1ヶ月、ガザのことを考えない日はないのですが、そのことを会社なんかでまわりの人と話した記憶がほとんどありません。1300人以上の人が死んでいるというのにこの無関心さは何なのかと問いただしたくなったりします。
 そしてガザだけではなく他の問題にも、そして自分自身が虐げる側にまわっていないかということについても敏感になりたい。キューバ革命が虐げられる者を解放したとはいえ、その武力闘争の中で革命軍が多くの軍事政権の兵士を殺害したことそのものにはボクはやっぱり諸手を挙げて賛成は出来ません。ガザ侵攻についてもガザ市民に1300人以上の犠牲者がいるとともにイスラエル側にも犠牲者がいることを忘れてはいけないと思う。死者の数は何かの根拠になるのではなく、それだけの悲しみがそこに生み出されたということ、必要のないものがそれだけ生み出されたということなのだと思います。

 先週末土曜日に東京は本郷で行われたイスラエルによるガザ攻撃に抗議する集会に参加してきました。
 HOWSホールという(良い感じに)くたびれた感じのビルの一室に最終的には入りきらないくらいの人が集まりました(40〜50人くらいかな)。ボクは少し早めに着いたので最前列の一番右という喋る人の近くで表情を窺いながら話を聞くことが出来ました。岡真理さんの話にはボク自身気がついていなかったことに気がつかされる話がありました。岡さんが京都新聞に寄稿されたこちらの記事では、『知らなかった(から仕方ない)』といって自己を正当化する(あるいは、逃げ道を用意する)とき、では『知っていたら行動を起こしていたのですか?』という問いに自分はどう答えられるだろうかと考えさせられました。他にも日本のマスメディアがいかに偏った情報しか伝えていないかということもおっしゃられていました(テレビも新聞も読まないのですが、聞くところによるとひどいようです)。
 年末までヨルダン川西岸にいたというジャーナリストの小田切拓さんは、主にマスメディアへの働きかけの話をされました。岡さんもおっしゃられていたのですが、新聞やテレビのニュース番組といったマスメディアのみを情報源とする人たちと、その日その場に集まったようなネットで積極的に情報を入手している人たちとの間で、今回のイスラエルによるガザ侵攻に対する考え方が大きく異なるとのことでした。マスコミでは『イスラム原理主義組織ハマースによるミサイル攻撃への反撃』として今回のイスラエルによるガザ侵攻が伝えられているそうですが、そもそもの問題の根源を考えない限りパレスチナ問題は解決しません。ガザは40年以上にわたってイスラエルに占領されているのです。そのことを多くの人が知るためにも間違った報道をただすための抗議をメディアに対して行ってみてはどうかという提案がありました。小田切さんはテレビのニュース番組に関わっていたこともあるそうで、どのニュース番組だと視聴者の意見が伝わりやすいかという話もされていました。NEWS23が『攻めどころ』だそうです。今夜にでも携帯電話のワンセグで見てみようと思います。
 今回の岡さんの講演のテーマでもある『私たちに何ができるか』ということを自分に引きつけて考えてみると、たとえばこのような集会に参加してそこで話されたことや自分が考えたこと、あるいはそのような集会やデモが今度あります(ボクも参加する予定です)とかいうことをブログに書くことも自分に出来ることのひとつだと思います。またデモに参加したりしてきちんと抗議の声を上げることが必要なのだと思います。
 日曜日にも東京では映画の上映と岡さんの講演があったのですが、土曜の夜から腰痛が出てきて日曜日は家でずっと寝ていました。今はイスラエル・ハマース双方とも停戦状態に入ったようですが、イスラエル軍はガザに残留しています。イスラエルが停戦宣言をしてそれを実行したところで何も褒められたことじゃないということを肝に銘じておかないといけません。イスラエルは昨年12月27日に攻撃を開始してからすでに1300人以上のパレスチナ人を殺したのです。ガザはイスラエルにより40年以上にわたって占領され続けています。占領されるものが占領するものに抵抗するのは当然のことではないですか? 占領されるものと占領するものとの圧倒的な軍事力の差や、占領されるものと占領するものとの圧倒的な死者数の差には目もくれないわけですか? そんなことはまったくフェアじゃない。
 40年以上にわたり占領し続け、この二十数日間で1300人以上の人々を殺害した罪の責任は問われるべきです。イスラエル軍はガザから即時撤退し、イスラエルはガザの占領状態を即時解除するべきです。

 土曜日の集会ではじめて聞いた、占領下のガザでのパレスチナの人々の生活はひどいものでした。そのような状態が一刻も早く解消されることを強く希望するとともに、かつて日本が他国を占領した歴史についても考えていかなければならないと思いました。

 いつだったか忘れたけど正月休みの間に妻の実家であるテレビ番組を見ていたときのこと。その番組は開店して数年以内の行列の出来る人気ラーメン店の店主にこれまでにない新しいラーメンを作らせて審査員にジャッジさせるという趣旨のものだった。審査員は5人いてうち3人がラーメン店の店主(たぶん)、あとのふたりが(ラーメン通の?)芸能人だったと思う。5人と司会者が実際に店を訪れて新作のラーメンを食べ、一人ずつジャッジを下して5人中3人が『参りました』といえばなんとかラーメン(正式な名前は忘れた)に認定されるというものだった。認定されたからどうやねんと思いながらも食数限定で実際にそのラーメンを食べることが出来る店もあったりして、番組を見ている人の中には実際に食べに行った人もいるのかもしれない。
 その番組を見ていてふと思ったことがあって、全員ではないけど見た目が強面だったり派手だったりするような男性の店主の割合が多かったということ。実際に流行っている店ばかりということだからきっと味も良いのだろうけど、どうしてそのような風貌の人の割合が多いのかなと疑問に思った。あるいはその番組に出演した人たちがたまたまそうだったというだけなのかもしれないけど。それで新聞の番組欄を見ていたら『審査員に逆ギレ』みたいな文章が踊っていたので、途中からはラーメンそっちのけで店主の顔を見ては『キレるのはきっとこの人に違いない』と妻と妻のお母さんと言い合っていました。だっていかにもキレそうな風貌の人ばかりだったから。新しい店主が登場するたびに『さっきの人じゃない、この人だ』と確信するのに、ジャッジの段になって審査員からだめと判断されても意外と真摯に受け止めていたりしていたので、人を顔や見た目で判断してはいけないとしきりに反省することになりました。番組の途中で出かける用意をしに2階に上がってしまったので最後まで見られなかったのだけど、妻のお母さんによると結局は最後まで誰も逆ギレはしなかったらしい。番組欄を見て踊らされていたのはボクたちの方なのでした。

新年の抱負

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 新年おめでとうございます。
 年末年始を妻の実家の富山で過ごしています。とても寒くて雪が積もってあたり一面真っ白な中で息子とたくさん遊ぶ日々を送っていたらあっという間に年が明けていました。本年も greenplastic.net をよろしくお願いします。

 年末に1年を振り返らなかったので簡単に。
 2008年はなんといってもまず息子が誕生した年としてこの先も記憶されることでしょう。ちょうど1年の真ん中の7月1日に生まれたので年の前半は誕生への期待、後半は成長への期待とともに見守り続けた年でした。大阪で生まれてすぐに妻の実家の富山で暮らすようになった妻子と東京での単身赴任を続けてきたボクですが、ようやく2月から東京で家族揃って暮らす目処が立ちました。
 子供の成長には驚かされます。11月末に過ごして以来のこの年末年始なのですが、この1ヶ月での息子の成長には目を見張るものがあります。まわりの大人のアクションに対して(機嫌が悪くなければ)笑顔で反応するようになったし、手にしたものは何でも口に入れるようになりました。ボクの顔ですらつかんで口に入れようとします。指を口に入れられたときにはそこに近々生えて来るであろう歯の予感が感じられました。
 クリスマス・イブにはじめて寝返りとお座りが出来るようになった息子はとても元気です。今日はちょうど生まれて半年なので(ハーフ・バースデイなんて言葉で写真屋からは宣伝のはがきが届いてましたが)朝起きたときに『おめでとう』と息子に言いました。新年と生まれて半年おめでとう、と。
 一緒に暮らすようになれば妻と共に子育て出来るのでそれが今から楽しみです。仕事の方もいろいろと頑張らないといけないのですが、家庭とのバランスが狂わないように気をつけながら仕事に励みたいと思います。目下の案件では使用しないプログラミング言語の勉強をする時間を(業務時間内から)捻出することを念頭に置いています。それとは別にプライベートでも資格等の勉強を定期的に続けたいなと思っています。3月に受けるつもりの(まだ勉強をはじめていない)TOEIC を皮切りに。それから近所の図書館でたくさん本を借りて読みたいとも思っています。
 また、社会へのより積極的な働きかけもしていきたいと思っています。抗議活動やデモ行動、困っている人・苦しんでいる人に対して自分が何が出来るのか、たとえば、職を失って住む場所もなくなった非正規雇用の人に対して何一つ関わることなく行動を起こしていないのは信念に反するのではないかと自問しています。自分に何が出来るのか具体的にはまだ分かりませんが、出来ることからひとつひとつ動いていきたいと思っています。

戸籍と添加物 ‐ 最近読んだ2冊の本

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 せっかく図書館の近所に引っ越してきたのだから活用しない法はないということで最近は楽しく読書しております。だいたいが小説しか読まないのですが、知人がブログで取り上げていた戸籍って何だ―差別をつくりだすものという本を読みました。これがとても興味深い本だったので、2月に妻と子供が東京に出てきた暁には彼女にも奨めてみようと思う。まず圧倒的に知らなかった情報がそこにはあったし、これまでの自分の具体的な行動の杜撰さを突きつけられる思いだった。これまでの自分の無知と無自覚さを反省しながら、守るべきものを守るための対決姿勢は固持していきたい。
 写真付き身分証明書が求められることがまれにあるのだけど、車の運転免許証を持っていないので困ることがある。まあパスポートがあるのでそれで事は済むのですが、それで写真付きの住民基本台帳カードを作ったりしたことがあった。ところで住民基本台帳ネットワーク・システムが目指す(隠された)目的は別にしても、システムの不備・お粗末さが目に余るような気がする。住基カードを使った付記転出届というのを妻が去年の夏に行おうとしたのだけど、通常の手続きで転出届を旧居住地の役所に提出して(郵送でもOK)新しい方の役所に転入届を提出した方が早かったらしい。というか、そこにいた職員の誰もが付記転出届の処理の仕方を知らなかったそうな。妻がその旨伝えると奥に行ってみんなで分厚い本を繰り始めたというのだから。システムが目指す管理社会の暗さと、そのシステムの現場での運用のお粗末さとの落差にほとんど目の前がくらくらしてきます。
 いずれにせよ、常に必要最小限のデータしか第三者に渡さないようにしようとは思った。これまで何度も戸籍謄本・抄本、住民票を役所で取って何も考えずに第三者に渡していたけど、これからは記載事項証明で済ませられるならそうするようにしようと思った。

 もう一冊、友人がブログで取り上げていた食品の裏側―みんな大好きな食品添加物も大変興味深い内容で知らないこともたくさん書かれていた。こちらの本も妻に奨めようと思っています。加工食品にいかに添加物が入っているかという問題、そのことを分かった上でボクたちはそれを食べているのかという問題、そしてそのこと(添加物が入っていること)を知ることが出来ないという問題。これだけ加工食品があふれていてその便利さを享受してきたわけで、それに突然謀反を企てるようなことは現実的に出来ないけれど、加工食品や調味料を買うときには裏のラベルの内容物の欄をきちんと見て、この本から学んだ知識で添加物の出来るだけ少ないものを選ぶようにしています。値段は少し高いけど、特にそろそろ6ヶ月になって離乳食を始めようとしている息子のことを思うと、ここら辺で食生活の見直しをする良いきっかけになりました。

 この2冊の本からは具体的な行動指針のようなものを学ぶことが出来たので他の人にもお奨めしたい。難しい本ではなく読んでいて面白いというのも素晴らしい点だと思う。

プロブレムQ&A 戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)
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食品の裏側―みんな大好きな食品添加物
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引っ越しました

 土曜日に引っ越しました。引っ越し屋さんを頼もうかとも思っていたのだけど、同僚の方が手伝ってくれると言ってくれたので、レンタカーでトラックを借りて自分たちで荷物を運ぶことにしました。それで、平日の夜にスーパーマーケットなんかで段ボール箱をもらってきてちょこちょこと荷造りを進めておりました。
 荷物の総量も自分が想像していたより多かったし、部屋から荷物を運び出しトラックに積み込むのにも思っていたよりも時間も労力もかかりました。ようするに甘く考えていたということなのでしょう。それと、引っ越し屋さんはすごいということの2点しか思いませんでした。すべての荷物を積み込むことが出来たのは、3次元空間を駆使して高密度に荷物を配置してくれたnaeさんのおかげです。そして台車を駆使してマンションの5階からひたすら荷物を運んでくれたM君のおかげです。トラックで新居に到着すると、ボクはまず駅前の不動産屋へ家の鍵を受け取りに行きました。その間に今度ご近所さんになることになった同僚のMさんが自転車で差し入れを持って来てくれていました。ちょうど東京ガスの人が来てくれていて、手伝いに来てくれた同僚のみなさんに家の中を見てもらいながら、東京ガスの立ち会いも同時に進めました。昼から飲まず食わずで働き続けてくれたチームのみんなとリビングでMさん差し入れの鯛焼きをいただきました。しばらく休んでからのトラックから荷物を下ろす作業は、先ほどの積み込む作業とは比べものにならないくらいに速やかに進みました。オートロックのあるマンションの5階からエレベーターで荷物を運ぶのに比べると、新居はトラックを止めた道路沿いの1階だったので早い早い。荷物を運び入れる途中にNTT東日本の人が来て光ファイバーの工事をしてもらいました。
 M君と机を運び込むのに苦労したりしながらも、とりあえずその日の夜に眠れる準備だけをしてからレンタカーを返しに向かいました。自転車で来てくれたご近所のMさんとは別行動で、それぞれ蒲田に向かいました。トラックを返したあとで合流して、打ち上げ会場の餃子屋さんへ。蒲田で美味しいという餃子屋へ行ったのですが、ホントに美味しかったです。
 次の日、水道とガスの停止に立ち会うのと忘れ物を取りに行くために昼から旧居に行ったのですが、時間があったので蒲田にある前日とは別の店で餃子を食べました。休みの日の昼から焼き餃子と水餃子とビールを堪能しました。結局、旧居の立ち会いは必要がなくて忘れ物を取って帰ってきただけになったのですが、帰りに蒲田で同僚のMさんとばったり出くわしました。電車で2駅くらいのご近所さんになった会社で向かいの席のMさんとは、休みの日に地域の大型スーパーで出くわすかもと冗談半分に言っていたのですが、引っ越しの打ち上げに一緒に餃子を食べたその次の日にもうばったり出くわしているということは、この先はたして何が起こるというのでしょうか。同じ鉄道路線に引っ越したからといってそうそう出くわすものでもないでしょう?
 お隣さんにも菓子折を持って挨拶に行きましたが、感じの良いおばさんで安心しました。そう伝えると妻も安心していました。

 東京に出てきてからのこの1年5ヶ月は腰を落ち着けるということがありませんでした。東京で暮らしていたマンションはいずれ妻と一緒に暮らすようになると出て行く場所であり、妻の妊娠とともにボク自身がそこを離れ不定期に大阪で暮らすようにもなってますます自分の居場所が拡散していったのです。そのような経験ははじめてのことでした。
 2月に妻と息子が引っ越してくるまではしばらく単身赴任が続きますが、それからはボクたちはここで本格的な子育てを行うことでしょう。そして子育てを通してボクたち自身も育てられるでしょう。そのように腰を落ち着けるには良い場所を見つけることが出来たのではないかと思っています。

『あなたとは違うんです』と言うこの国の長

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 辞任を表明した総理大臣が記者会見で、

「総理の会見は人ごとのように感じるという国民が多かった」という記者の質問に対し、福田首相が「人ごとのようにとあなたはおっしゃったが、私は自分自身は客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と答えた

 ねとらぼ:福田首相「あなたとは違うんです」がネットで流行中 - ITmedia News

 らしい。
 その『あなたとは違うんです』という言葉がもてはやされているようですが、ボクにはそれが記者一人にではなく国民全体に向けられたものに思えてならない。つまり、この総理大臣は自分がその職を辞するに当たって『私はあなたたち国民とは違うんです』と言ったのだ、と。
 まあそれがどの程度実際から離れている(近づいている)にせよ、一国の総理大臣が一般の庶民とどのくらい違わないでおられるのだろうかと思ったりもした。ほとんど違っていて当然じゃないかと思ったりしたほどでもある。
 とにかく1年ごとに総理大臣が職務放棄するような国は終わってるだろう。ボクだって転職先の心配がなければ1年ごとに辞職したいさ。

 ボクが住んでいるところは東京でも下町なところだと思うのですが、先日仕事を終えて自宅の最寄り駅に着いたら、駅前の交差点の向こう側になにやらスターウォーズのライトセイバーのようなものを持った2-3人の集団に遭遇しました。複数人なので2-3人でも『集団』と呼んで良いと思うのですが、ともかくそれは火の用心を呼びかける初老の男性のグループでした。いや、夏場に火の用心を呼びかけるか少し疑問に思えてきたので、もしかしたら火の用心ではなく(あるいは火の用心プラス)戸締まり用心とかそういった夜警的な活動だったのかもしれません。ともかく『何とか用心』なんて久しぶりに見るなあと思いながら交差点ですれ違ってしばらくしたら、後ろの方から拍子木を打ち鳴らす音が聞こえてきました。その音が思ったより大きく聞こえたので、これじゃあすでに布団に入って寝ていた人もその音で目が覚めてしまって『そういえば小腹が空いたな』なんて思って天ぷらでも揚げだしたら余計に火事の危険性が高まるんじゃないかと思ったりしました。

 先週末の土曜日は家の掃除をしたり本を読んだり映画を見たり skype で久しぶりに動いている子供を眺めたりして過ごしたのですが、日曜日も日中は家で本を読んだりして過ごしました。陽が傾くのを待って夕方に近所のスーパーで買い物をしてから、久しぶりにジョギングする格好になって家を出ました。7月は一度も走っていなかったので急に走っても体の負担になると思って、とりあえずウォーキングだということで多摩川まで歩くことにしました。30分くらいかなと思っていたところが40分かかり、久しぶりに多摩川の河川敷に出ると気分も良くて30分ほど走ってしまいました。以前のペースを維持して走ることが出来たのですが、久しぶりだったのでけっこうしんどかった。それでも以前は1時間走っていたから、また徐々に前の状態に戻していかなければいけません。走る前とか走り始めても前半のうちは帰りも歩いて帰ろうと思えていたけど、途中から電車で帰ろうという気持ちになっていました。
 家について浴槽にお湯をためて足をマッサージしながら浸かっているのが我ながら懐かしかった。7月は一度も走らなかったし一度も泳がなかったけど、それでも腕立て伏せをしっかりやったり、子供を抱いたり沐浴させたりしていたのでけっこうな運動になっていたと思います。水泳のゴーグルを大阪に忘れてきたので泳ぎに行けないのは困ったところですが(度の入ったレンズなのです)、日中を避けて走り込めたらなと思っています。

第一子誕生

 2008年7月1日17時37分に第一子を授かりました。いろいろと問題があって帝王切開するかどうかの選択を迫られ悩んだのですが、子供の状態を優先して帝王切開を選択しました。すなわち母体にリスクのかかる選択肢を選んだわけで、本当に妻には感謝するばかりです。妊娠期間中そして出産に際して妻が背負った苦痛や投げ出してくれた犠牲に比べてボクはいったい何をすることを出来ただろうと思うばかりです。あまりにもベタかも知れないけど、出産に際し父親に出来ることは非常に少ないと感じさせられました。出来る限り妻の支えになろうとしても、そしてそうなれたとしても、それはあくまで支えであって本柱であるところの母親には比されないのです。

 昨日の月曜日の朝に違和感を感じた妻と病院に行くと破水しているので入院することになりました。ただ陣痛の気配はなく、妻のお母さんが仕事を休んで富山から大阪へと出てきてくれたのですが、いっこうに陣痛の気配はなくその日はそのまま終わりました。
 火曜日の今朝に妻のお母さんとボクとで病院に向かおうというところで妻から電話があり、なぜかわからないけど急いできてくれというので行ってみると、朝の診察の結果、医師から陣痛促進剤の投与の選択を迫られているというのです。ボクはその時点ではじめて、破水してからの時間が長引くと細菌感染のリスクが高くなるということを知りました。ロビーで3人で話しているところへ看護士が来てさらに促し、結局は投与を選択しました。妻は奥へ連れて行かれ、ボクと妻のお母さんはそのままロビーで待っていたのですが、やがて呼ばれて通されたのが陣痛部屋でした。すでに妻の腕には点滴の針が打たれ、カーテンだけで仕切られたどこか別の仕切りからは本物の陣痛に苦しむ妊婦の漏らす声が聞こえてくるようなところです。そのような苦痛に歪む声を聞いていると、陣痛促進剤を投与していながらもそれが訪れないで苦痛から隔離されていることに安心を覚えてしまったりするのです。ああ、あの苦痛が妻に訪れるなんて! 目の前の餌に飛びつくだけの浅はかな私!
 昼食も普段通り食べていたので、仕事も残っていたボクはひとまず家に戻ることにしました。家に戻って食事を取って仕事のメールをチェックし、仕事の目処だけを付けて再び病院に戻りました。妻の状態は少しだけ痛みが増しているというくらいで、陣痛促進剤は劇的な成果を果たしてはいませんでした。しばらくまた点滴が投与されていく妻と妻のお母さんと陣痛部屋に待機していたら、ある時に突然胎児の心拍数が劇的に下がってきたのです。ボクはまた妻がベッドの上で姿勢を変えて、お腹に当てている胎児の心拍数をはかる器具の位置がずれたのだと思っていたのですが、看護婦さんが飛んできて先生が診察したところ、胎児になんらかの負担がかかっているとのことでした。陣痛促進剤が直接胎児に影響しているのかどうかわからないけど、破水してから30時間以上が経ち促進剤を投与してもなお陣痛は訪れず、その時点で帝王切開するかどうかの選択を迫られました。その時点で帝王切開せず今しばらく陣痛の訪れを待つという選択肢も残されてはいたのですが、仮に再び胎児への負担がかかった場合のことを考えると、苦渋の選択ではありましたがボクたち夫婦は帝王切開を選択せざるを得ませんでした。もちろんその選択は胎児への負担を減らす一方で母体へのリスクを増すものであり、だからこそ苦渋の選択であったわけです。
 妻がボクたちの子供を産むにあたってはらった犠牲をボクは忘れません。妊娠期間中、そして帝王切開という選択肢を選んだこと、それらはすべて妻が一人で払った犠牲のリストです。そこでボクが出来たことはあまりにも少ないと思います。ボクは出来る限り妻の支えになって妻の不便さや苦痛を緩和出来ればと働いてきましたが、出産に際しては母親にしか出来ないこと、父親であるところのボクがけして立ち入ることの出来ない領域があるのだと思い知らされました。
 帝王切開は無事に終わりました。まず子供が先にボクたち(ボクと妻のお母さん)の前に披露され、しばらくしてから手術を終えた妻がベッドに乗って戻ってきました。破水してから30時間以上経っていること、それから過呼吸の症状が見られることを理由に子供は小児科に即入院ということになりGCU(Growing Care Unit:成長促進室)に移されました。術後で動けない妻を病室に残して、ボクと妻のお母さんは GCU に入り子供と対面しました。過呼吸のために酸素濃度を高くした箱に入れられた子を見て、この子が自分の子だと思うと無条件でこの子を守ってやりたいという気持ちになりました。この子が晒されるであろうあらゆる危険から、そしてこれは間違っているのだろうけど晒された方がこの子のためでもあるような危険からでさえも、ボクがこの子とあらゆる危険との間に立ちはだかってやりたいという気持ちになりました。
 でも考えてみればそんなことは不可能だということはよくわかっているのです。この子にはこの子の人生があるのです。ボクにボクの人生があったように。ただある時点まではそのようにしてやらなければならないと思いました。やがてこの子が強くなり、自分で立ち向かえるようになったときにボクはこの子の前に立つのではなく横に並ぶようになりたいと思いました。そして時にはこの子がボクの前に立ったり、ボクがこの子の前に立ったり、ボクと妻とがこの子を守り、この子がボクたちの庇護を通り越し先へ行くことを願っています。
 ボクはこれまで知り合いであろうと誰であろうと、赤ちゃんという存在に触れたことがありませんでした。生まれて数時間の人間に触れたのははじめての経験でした。こんなに小さくてこんなに不安定で、でもこんなにしっかりとしていてこんなにも力強いものなのかと思いました。
 妊娠期間中と出産に際し妻は十分にがんばってくれました。これからはボクががんばる番です。妻とボクたちの子のために、そして妻とボクたちの子のおかげで、ボクは再びがんばることが出来るような気がします。だから生まれてきてくれてありがとう。この世界はひどいことが多いしその責任の一端は君より先にこの世界で生きてきたボクたちにある。だけどこのひどい世界にあってもなお意味のある生き方を見つけることが出来るようになってほしい。ボクたちがそうしようとしているように。

カラスはなぜ鳴くのか

 先週くらいに家の近所でカラスをよく見た。ゴミの日になると、ほとんどの家庭が朝早くに家の前の道路沿いにゴミ袋をまとめるわけだが、実際にゴミ収集車がやってくるのはたいてい正午を過ぎている。特に週二回ある燃えるゴミ(生ゴミ)の日には一段とカラスの数も多く、午前中に近所を散歩していると穴が空いたゴミ袋からゴミが飛び散って散乱している光景が目に入ってくる。ときどきカラスがゴミ袋の前に立ってしきりに首を振ってあたりを見回しているのに出会うことがある。まわりに敵(人間?)がいないかどうか伺いながらゴミ袋を突こうというのだから何とも恐ろしい。そう、カラスは真っ黒で大きいので、電柱なんかに留まっているのの下を歩くときなんかは多少ならず心の中で警戒している。いつ襲ってくるかしれたもんじゃない。東京でもゴミの日になると駅前の電柱にカラスが集まってきていて薄気味悪く感じたものです。
 そのようにカラスに対して幾何かの恐怖心と警戒心を抱きながらも、ボクがまずカラスと聞いて思い浮かべるのは(実際のところはわからないけど、恐怖心や警戒心とはおそらく縁遠いであろう)志村けんなのです。『かーらーすー なぜなくのー からすのかってでしょー』という歌は子供の頃にテレビで何度も聞いたであろうし、たしかレコードまで持っていたように思います。志村けんがカラスの鳴き声を真似ていたのかどうかあまり記憶にありませんが、カラスの鳴き声を聞くと志村けんが鼻にかけて発声する独特の声色が思い出されるのです。
 先週は家の前の高架沿いや大通りの電線なんかに多く見られたのが、今週になって家の前を横切ったりするのを目や耳にしました。徐々にその活動範囲を広げているのでしょうか。
 というような話を妻としていると、妻が育った富山の実家には近くにこぢんまりとした林があってカラスの住処になっていたという話を聞きました。あるときあまりにもカラスが増えすぎて周辺の柿の木なんかに被害が出始めたので、猟銃でカラスを撃ってまわったというからスケールが違う。そんなこと大阪でも東京でも出来るわけがないですからね。冗談で『それだけカラスが多かったら別に狙わなくても、目をつむってでも打ち落とせたんじゃないの?』と言ったら『そんなことはない』とまじめに訂正されました。
 ところで、本当のところカラスはなぜ鳴くのでしょう。ボクにはヤツらが電柱に留まりながら下を歩く人間を見て『あいついけるんちゃうか』と襲撃の相談をしているようにしか聞こえません。

個人の問題と社会の問題

 秋葉原で通り魔事件が起きた10日ほど前にたまたま秋葉原を訪れていたこともあってか、テレビで事件の報を聞いたときにはまず自分や家族がその場にいなかったことの安堵と、もしその場にいたらと想像したときの恐怖でした。歩行者天国にトラックが突っ込み車から降りてきた男がナイフで人を刺している、何人かが刺されて5人が心肺停止状態にあると聞いたとき、10日間という時間と東京・大阪間という距離を隔ててはいたものの、もしかしたら自分がその場に居合わせたかも知れないと思わずにはいられませんでした。
 この事件に関していろんな考えをテレビやネットで目に耳にしてきました。ボクが思うのはただふたつのことです。容疑者は犯した罪のいかなる責任からも免れることは出来ないと言うこと、そしてこのような容疑者を育てたこの社会の一員としてボク自身にも責任があるということです。おかしなヤツが出てきたら排除して、はいおしまい、というわけにはいかないでしょう。個別の事案に注力するとともに、なぜこのような出来事が起こったのかという根本の部分にもより注力しなければならないと思います。
 この事件で被害に遭った方々にはお悔やみ申し上げます。