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 平日は仕事で家に帰る時間が遅いです。どのくらい遅いかというと、妻と子供がもう眠っていて次の日の朝も妻が子供を保育園に送っていくときにベッドの中から行ってらっしゃいと何とか言えるくらいに遅いです。それがほとんど常態になっているのは良くないなあとは思いつつもある程度は仕方がないと思ってもいるし、これもまた頻度の問題だと思っているので、その問題を取り上げるのはまた別の機会にすることにして、この間久しぶりに早く帰ることが出来たときのことを書こうと思います。
 家に帰ると妻も子供もまだ起きていて、珍しくボクがテーブルでごはんを食べているとふたりともものすごい勢いで話しかけてくるのです。息子はボクが一歩家に入ったときからもうほとんど叫びっぱなしで半分以上何を言っているのかわからないし、妻は今月末や来月末に予定されている保育園の行事のことで色々と確認をしてきます。途中まではボクも両方に耳を傾けていたのですが、ある時点で思わず笑いながらこう言ってしまいました。まあ確かに平日の夜に滅多に家にいないボクが悪いのだけど、とりあえずこのごはんだけでもゆっくり食べさせてくれ、と。そのあとでゆっくり話は聞くから。
 しかし息子のテンションは高かった。叫ぶときには本物の叫び声で叫んでいた。保育園の帰りに妻の自転車の後ろの座席に乗りながら空にヘリコプターを見付けたみたいで、今度一緒に見ようねとボクに話しかけていた。ヘリコプターは遠くのお山に飛んでいったと言ってた。そのフレーズはたぶんボクが『痛いの痛いの遠くのお山に飛んでけー』というのから取ったのだと思う。しかしまあ息子の日本語の習得のスピードには驚かされます。
 最近、息子は夜中にボクの布団の中に入ってきます。ボクの枕に頭を載せてくるのでボクは眠っていてもそれに気がつきます。きっと寒いのでしょう。赤ちゃんの時から寝相が悪くて掛け布団なんてほとんどかぶっていなかったのですが、最近はだいぶ寝相も良くなってきたみたいです。夜中に寝ぼけたままボクの布団に入ってくる息子に毛布と布団をかけてやるのが最近のボクのお気に入りです。

炊飯ジャークロニクル

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 妻が勤めている会社で正月明けにビンゴ大会が開催されるということをちょうど1年前、正月明けに面接を受けてその次の日から勤め始めたとき(なぜならその日に働いていないと保育園の4月入園に大きな影響が出るからです)に聞いていました。ビンゴ大会は年初に行われるようで昨年の大会には妻は参加できなかったのですが、今年の大会ではなんと炊飯ジャーを持って帰ってきました(本当はルンバを当てたそうなのですが、もうすでに買っていたので他の人との交換取引があったようです)。しかし我が家にはすでに炊飯ジャーがあります。
 どうするのかなあと何の気なしに思っていたら、大阪に住む妻の妹に送ってあげるということになりました。話がややこしくなるので仮に今我が家で使っている炊飯ジャーを炊飯ジャーA、妻の妹が大阪で今使っているのを炊飯ジャーB、妻が会社のビンゴ大会で持って帰ってきたのを炊飯ジャーCと呼ぶことにすると、まず炊飯ジャーAを買ったのがいつだっけという話題になりました。なぜなら、AとCの性能を比べて良い方をうちで使おうということになったからです。あらためて考えてみるとけっこう前のことで、まだ大阪で妻と同棲していた頃に買ったということが明らかになり、少しばかり驚きました。もっと最近買ったのだ、だからまだまだ機能的にも先頭集団に含まれていると思っていたからです。
 大阪でまだ同棲していた頃となるともうかれこれ4〜5年前になります。ボクが東京に出てきたのと時を同じくして妻と妹が一緒に暮らし始めたとき、大阪に残ったのがAで東京にやってきたのが妻の妹がそれまで使っていたBでした。東京での単身赴任中、ボクの一番近くにいてくれた炊飯ジャーは炊飯ジャーBです。その後、妻と息子が東京に出てくる際に、炊飯ジャーAとBは東京・大阪間で交換されることになりました。
 それから2年あまりの時が経ち、炊飯ジャーCが現れることとなりました。炊飯ジャーBは旧式で容量も少なかったので、Bの後釜としてAは随分と役に立てるのではないかと思います。
 しかし正直なところAとCで炊きあがりにどのくらいの違いがあるのかはよくわかりません。ふたつ並べてお米を炊いて食べ比べてみればわかったのかも知れないけど、そのような機会もないままに大阪に送ってしまいました。新しい炊飯ジャーは蒸気があまり出ないようになっているのですが、洗わないといけないパーツが多くなっています。

200メートル泳いだだけで目がまわった話

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 椎間板ヘルニアの症状である下肢の痛みはおかげさまでずいぶんと落ち着きました。といってもまだ自分で思っているように左足が持ち上がっていないことがあって油断すると躓きそうになったりもするのですが、また階段の上り下りもまだ慎重にやってはいるのですが、それでもベッドの上で過ごした一月半から比べると、家の廊下でのたうち回っていた最初の数日に比べると、こうして社会復帰できていることがほとんど奇跡のように思えてなりません。
 今年に入ってからは毎日会社に行って仕事が出来ています。そして、昨日はリハビリということで歩いて行ける距離にある近所の区民プールに行ってきました。午後は予定があったので午前中に妻と子供と3人で行ったのですが外はめちゃくちゃ寒くてこんな寒い日にプールに行くヤツがはたしているのか、リハビリ初日としては最悪の出だしではないかと悪態をつきながらの往路でしたが、区民プールはそれなりの盛況ぶりでした(もっとも普段の様子を知らないわけですが)。妻子を見学スペースに残していざ温水プールへ入ったはいいものの、リハビリだからお年寄りに混じってウォーキングするしかないなあと思ってはいました。実際、最初のうちはその通りにしていたのですが、横でゆっくりと泳いでいる人を見ているとちょっと泳いでみようという気になったので、もちろんそれで痛みが出たりすればすぐにやめるつもりではいたのですが、ゆっくりとクロールで泳いでみたら特に腰に負担を感じるわけでもなかったので、そのまま泳ぎ続けてしまいました。ゆっくりとしたクロールで200メートル泳いだところで息が切れてきたので、まったくの運動不足やなあと思いながら泳ぐのをやめて再びウォーキングしていたのですが、なんだか気分が悪くて目の前がまわるような感じがします。何年も前に買った度入りのゴーグルのせいかなあとか思いながらしばらくウォーキングを続けて再び今度は100メートルほど泳いでみたのですが、それでも気分の悪さは消えなくてさらに少しだけウォーキングをしてから上がることにしました。
 プールから出て妻と話していると、しばらくウォーキングしたあとボクが突然泳ぎ始めたので驚いたと言われました。そう言われてよく考えてみるとボクは11月半ばから1ヶ月半の間、ほとんど寝たきりの状態だったわけです。それはただの運動不足とは違うだろうし、自力で外出できるようになってからもそもそも走れないから一度も走っていないし、それがたとえゆっくりとはいえいきなり200メートル泳いだらやっぱり気分が悪くなって目の前がまわってしまうのも無理ないことなのでしょう。次からは無理しないように、ゆっくり時間をかけてウォーキングすることにします。

自分の体に耳を澄ます

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 11月の半ばに椎間板ヘルニアになってから、ほとんどの時間を自宅で過ごすようになりました。痛みがひどかった最初の頃はともかく、ある程度落ち着いてきてとりあえずベッドの上で横になっていれば痛みからも離れていられるようになると、少しずつ仕事も出来るようになりました。
 基本的には今もまだ毎日そうです。ベッドの上で仕事をしています。週に一度のペースで会社にも行っています。まだ電車で移動するのが怖いので、出来ないことはないと思うのですが MacBook Pro を持ち運ぶのはけっこう負担だし(それもあっての MacBook Air なのです :p)、まだ左足にしびれがあって力が入りにくいので何かあったら危ないと言うこともあって、車で送ってもらったりタクシーを使ったりしています。
 昨日から今日にかけて長めの仕事があったので、昨日の昼にタクシーで出社してから今朝方まで仕事をしていました。ヘルニアになって以来、ずっと座っていた最長記録を更新したと思います。さすがに少しずつ痛みの範囲と痛み方が変化してきて危ないかなと思ったので、明け方にタクシーで帰宅しました。仕事をしないわけにはいかないので難しいところです。体に対してはけして無理のないようにしないと、むしろ症状が長引くということもあるでしょう。体と相談というのは本当にそうで、自分の体のいろいろな部分の声に耳を傾けないといけません。油断してその声を聞き逃すと、場合によっては取り返しの付かないことにさえなりかねないのですから。
 しかしそれはそれとして、やはりこれだけ働けるようになったというのは嬉しくもあります。普通に歩いていても(まだ多少ぎこちないけど)なんとか普通に歩けていることが嬉しいのです。最近は痛みに波があって痛い日と楽な日があるのですが、調子の良い日は気分も軽くなります。このまま痛みがなくなってくれればなと思います。

椎間板ヘルニアになりました

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 十日ほど前にディズニーランドでアトラクションの列に並んでいたら左足に激痛が走って立っていられなくなったので車椅子で救護室に運ばれました。ベッドでしばらく横になって、その日はなんとか電車を乗り継いで(京葉線とりんかい線と京浜東北線を乗り継いで)(最後はタクシーを使って)家にたどり着いたものの、翌朝も痛みで早くから目が覚め、家から一番近い整形外科までなんとか歩いて行って、待合室でも激痛に襲われ、レントゲンを撮る際にも体勢によっては辛くて、その日はコルセットを巻いてもらって痛み止めと湿布が処方されました(レントゲンでの診断は腰椎分離・滑り症ということでしたが、これは実はボクが10歳くらいのときに診断された内容と同じものでした。小学校の陸上部で走り幅跳びの練習中に腰を痛めて腰椎分離・滑り症と診断されたのです。当時は腰の痛みだったのですが、今回のように足が痛くなったのははじめてのことでした。)。もちろん、家に帰るのも一苦労でした。
 痛み止めの薬を飲めば少しは楽になるのだろうと思っていたけどそんなことはなく、あまりの痛みに耐えかねて坐薬を使っても痛みに変化はほとんどありませんでした。夜になっていよいよ耐えられなくなったので妻に救急の病院を探してもらって、タクシーも呼んでもらって行くことにしました。その病院で腰に注射を3本くらい打ってもらってようやく少し痛みがましになったと感じられたのですが、動くとまだすごく痛くて週末も家でトイレに行くのが一苦労でした。
 週明けにもう一度救急でかかった病院に行ってまた腰に注射を2本ほど打ってもらいました。それで大きな病院に行った方が良いと言うことで紹介状を書いてもらいました。その翌日くらいから痛みがまた少しましになって、トイレに行くときにも激痛に悩まされるようなことはなくなりました。腰に注射を打つたびに少しずつ痛みがましになっていったという印象です。
 紹介状を書いてもらった大きな病院には木曜日に行ってきたのですが、MRI 初体験の結果、椎間板ヘルニアで間違いないだろうという診断結果でした。今すぐ手術する必要があるわけではないが今後の症状によっては手術も考える必要があると言うことで、とりあえず2週間様子を見ましょうということになりました。

 そういうわけで、かれこれ十日間くらい自宅療養中です。痛みが落ち着いてきてからはベッドの上で仕事もしています。社長に車で送り迎えしてもらって打ち合わせに出たりもしています。昨日は夜ごはんを食べた後で近所のコンビニまで妻と子供と歩いて行くことも出来ました。病院の先生からは安静にするように言われているので出歩いて大丈夫かしらと思わなくもないですが、どうしても必要な打ち合わせだったり必要最小限の気分転換だったりは体の調子と相談しながら進めていきたいものです。
 しかしまあ、最初の数日は本当に痛くて痛くてどうなることかと思いました。家族の支えがなければ日常生活も送れないような状態で、妻だけではなく2歳の息子も気にしていろいろと手伝ってくれるのです。前みたいに抱っこをせがんでくることはなく我慢してくれているし、ボクが足を痛がっていると『こしとあしがいたいの?』と気にしてくれてます。腰を痛めるまでの数ヶ月は仕事で忙しくて家族との時間があまり持てていなかったこともあって、病床ではいろいろと考えました。

一番好きな食べ物は何ですか?

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 一番好きな食べ物は何ですか? と訊かれたら、あなたは何と答えますか?
 普段から自分の一番好きな食べ物の最新ランキングを更新し続けている人ならともかく、たいていのそうじゃない人はその時々によってきっと答える食べ物が異なってくることでしょう。確信を持って答えるというよりは、いろいろと思い悩んだ末にきっとこれだとまるで自分のことではないかのように選択肢の中からひとつを選び出すのではないでしょうか。
 かくいうボクもそのような類の人間ですが、少し思い悩んだ末に出す答えは実は決まっています。ボクの一番好きな食べ物、それは『ショートパスタ』です。いわゆるマカロニですね。
 ショートパスタとの衝撃的な出会いはボクがまだ幼稚園の頃にまで遡ります。おお、30年以上前じゃないか。当時、幼稚園に預けられていたボクは幼稚園が終わった後、週の半分を母方の祖父母の家で、残りの半分を父方の祖父母の家で過ごしていたようです。そして、母方の祖父母の家には母の兄の奥さん(伯母さん)がいて、この人がスープに浮かべたアルファベットのショートパスタを今でも良く覚えています。食べ物が文字の形をしていることの衝撃は幼稚園児のボクには計り知れないものだったことでしょう。動物の形をしたビスケットも好きだった記憶があります。子供は何でもおもちゃにして遊ぶから、食べ物が何か別のものの形をしているだけで楽しいのでしょう、きっと。うちの子も動物ビスケットが好きで良く食べていました。
 たまにちょっと品揃えの豊富なスーパーなんかに行っていろんなショートパスタがあったりすると、その光景をこっそりと楽しんでいます。いろんな形をしたいろんな色のショートパスタを見ていると全種類集めたくなってきます。スーパーやお弁当屋さんでお総菜を買うときもついマカロニサラダを買ってしまいそうになるのですが、お総菜のマカロニサラダは分量の割には値段が高いような気がして(自分で作ったらと思うと)買うのを躊躇うことがよくあります。
 ちなみに、一番好きな飲み物はビールです。こちらはいつでも躊躇うことなくすぐに答えることが出来ます。

阿部和重の『ピストルズ』を読みました

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 阿部和重のピストルズを読了しました。とてもおもしろかった。
 彼の小説はひとくせもふたくせもあって、そのくせのありかたが大変にボク好みでもあるのですが、この小説も実にそのような作品でした。他の作品への言及、自作品の援用、本気とも冗談ともつかないくらいに気合いの入った語り。そんなことあるもんかいなと最初は思ってしまうようなことでも、延々と数百ページも読んでいれば世界の中にしっかりと居場所を見付けられるものです。そのためには信憑性のある語りが必要で、実に延々とそれを見事に行った挙げ句の果てに、なんとも取って付けたようなひっくり返しによる裏切りがあり、自分が長い時間をかけて読んできたものはいったい何だったんだろうと放り出されてしまう、もしくは再度確認するためにまた一から読み直さなくてはならないという衝動に駆られてしまうような有様です。
 きっとそれも作者にとっては織り込み済みのことなのでしょう。結果を提示、もしくはほのめかせておいて、しかし原因を最後の最後まで語らない、そこへ至る何百ページもの間、読者を飽きさせることなくむしろ結末へと急がせる語りは見事だったと思います。
 しかしまあ、良くもこんな小説を書いたものだなあと思いますね。菖蒲あおばの語りがぶれないのは見事でした。
 ピストルズの次は、年末に向けてノルウェイの森を再読し始めました。

ブログを書いた

 久しぶりにブログを書いた。長年続けてきたこのブログを辞めるつもりはまったくないし、いつも頭の片隅に『最近書いていないな』という思いがあって、でもいざ書き始めようとするとうまく言葉で表現できなかったり、うまく表現できたとしても差し障りがあったり、そもそも心が荒んでいて誰かを罵倒しそうになったりと、それなら書かない方が良いんじゃないか、無理して書くこともないんじゃないかと軽い気持ちでいました。
 それは今でも変わりません。このブログ自体が、自分のペースで書きたいときに書きたいことを書く、ということをモットーに取り組んでおりましたので、もう1ヶ月以上書いてないから何が何でも書かないといけない、というような思いにはならないわけです。
 しかしまあ、約1ヶ月ぶりに書きました。久しぶりに書いてみて思ったのは、やはり自分のブログがあって良かったなあということでした。自分が好きなときに好きなことを書けて、またそれを読んでくれる人が何人かはいる、ということの心地よさ。自分の言葉、自分の文章がその輪郭にすっぽりと嵌る容れ物のような。
 あちこちでごちょごちょ書いたりしていたし、中にはブログというよりは創作に近い物もあるのでそれはそれで続けていきたいと思うけど、ここはもっと気兼ねなく生活の有り様を書いてたところだったなあと思ったりしました。

仕事が嫌い

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 会社での立場も変わったし、そのおかげで仕事に対する考え方も幾らか変わってきた。それが良いことだったかどうかと問われると、良いことだったと答える。子供と過ごす時間が少なくなったことは良くなかったことだし、妻との会話が減ったことも良くなかったことだけど、平日の時間のなさをなんとか週末に取り戻すことは今のところ出来ているとボクは思っている。家族がどう思っているかは怖くてまだ聞けていない。
 会社に対してただ不満を抱えていれば良いだけの状況とは大きな違いがある。実際、1年前くらいまでは会社に対してただ不満を抱えていれば良いだけの状況だった。そしてその不満を定期的には伝えてはいたのだけど、あくまでそれを改善するのは会社側の責任だと考えていた。もちろん今でも会社側の責任としてやってもらわないといけない種類のことはあるけれど、そのうちの幾らかは自分たちの手で改善していかなければならないものだと今では思っている。それには、自分たちが主体的に動かなければ誰もやってくれないというアイロニカルな理由もあるのだけど、たまたまボクは会社からある程度のポジションを与えられそのような業務改善を行って良いのだというふうに思いもしたから、周りの意見も聞きながら自分が働きやすいと思う環境をなんとか作り上げたいと思って行動している。
 でも、結局はもしすべてを自分の思い通りにしたかったら自分ひとりでやるしかないなあとしょっちゅう思っている。そんなことは当たり前で、人はみんなひとりひとりが違った考え方をするし、中にはコミュニケーションが取りにくいなあと思う人もいる。取っ付きにくそうで実は話してみるとしっかり話が通じるという人もいるし、やたらと気さくに話しかけてくる割には結局はどういう結論に至ったんだっけと毎回思わされる人もいる。自分だって人にどう思われているかわからない。でもまあ、仕事における大半の問題は物事が曖昧なままになって中断している状態だと思っているので、相手がどういう人間であれとにかく物事を前進させていくことが求められているのだなあと感じている。そしてなかなかそういう能力を持っている人が実はいない。遠慮しているのか自信がないのかプライドが高いのかなんなのかわからないけど、物事の問題点を解決して前に進めていくことが出来る人が少ないのは、自分のところにそのような問題がどんどん集まってくるという意味において大変困る。ただ遠慮するのは意味がないし、自信がないのはもしかしたら間違ったことを言ってしまうかもということの現れだから知識を得るなり努力するしかない。プライドが高くて良いことなんてないと思うので生き方を見直した方が良いと思う。とにかく自分なりに改善策を提示して、知識がなければ知識がある人に聞けばいい。とにかく先頭に立ってチームメンバーの良いところを引き出しながら前へ進んでいくという能力が求められているのだと思う。
 考えないといけないことの種類と量が圧倒的に増えたものの時間はこれまで通りの速度で流れるので、ただ単に時間をかけるわけにはいかないからなんとか効率よくさばく方法を模索する日々なのです。分かったようなことを言う人はどこにでもいるけど、実際に経験してみないとわからないことが多々あるということ、特に分かったようなことを言うような想像力の欠如した人間には特にそうであるということがよくわかった、ということがわかってるのかな。
 仕事するのが嫌いだから、効率よく仕事が進められるような仕組みを作れるように努力しているところです。毎日早く帰るために。

 1ヶ月ほど前に妻に聞いた話がとても面白かったので印象に残っている。
 会社のお昼休みに同僚の人たちとお弁当を食べているときに、子供の頃は良かった、何も考えずに毎日遊んで暮らしていた子供の頃に戻りたい、という他愛もない話題になったそうな。それでその場にいた3人のうちで最年少だった妻だけが『そうは思わない』派だったそうで、残りの2人に大変驚かれたのだという。
 妻が言うには、たしかに子供の頃は何も考えず苦労も知らずに毎日を楽しく遊んで暮らせたかも知れない、しかし大人にならないと経験できないことはたくさんあって、それはときには苦労を伴うかも知れないけれど、その分喜びも大きいのではないか。たしかにそうかもしれないとそこでボクは思う。すべてが自分の望み通りにいくことがはたして幸せなのかというと、そうではない場合もあるだろう。たとえば、ボクは大学を出てはじめて勤めた会社では大変苦労をしたと今でも思っているけれど、あのときの苦労が今の仕事に対するスタンスの基礎となっているとも思っている。他にも理由はあるけれども、苦労を通して何人かの素晴らしい人たちと出会うことも出来た。もしあのときボクがより働きやすい他の会社を選択することが出来たなら、きっとそっちを選んでいたと思う。ときには必要な苦労であるとか、苦労の先にあるであろう喜びであるとかいったものを常に望むことが出来るほどにボクは立派な人間じゃない。
 話を戻すと、『何も考えずに毎日遊んで暮らしていた子供の頃』に妻が戻りたいと思わない理由は2つあって、それは現在の意識を持ったまま戻れるのかどうかということ。もし現在の意識を持ったまま戻れたとしても(妻の同僚の人たちもおそらくこっちだと思う)、大人の意識を持ったまま周りの子供たちと本当に毎日楽しく遊んで暮らすことが出来るのかどうか、最初の何日かは楽しいかも知れないけど子供の遊びなんてすぐに飽きるし、親からは干渉されて自由さなんてもちろんないし、楽しいはずがないという理由がひとつめ。もうひとつは、もし現在の意識を持たずに戻るのだとすれば、戻ったという自覚すらない状態で1回目の子供時代と何ら変わらないんじゃないか、だとすればそれは本当に戻ったことになるのだろうか、というものだった。
 何も考えずに毎日遊んで暮らしていた子供の頃に戻りたいという現代ストレス社会で闘う労働者なら思い至らない日はない他愛もない話題について、場合分けをして真剣に検証している妻が面白くて悔しいのだった。