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1ヶ月検診とお盆休みの予定

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 7月1日に子供が生まれてもう1ヶ月が過ぎました。富山の妻の実家にいるので毎日寂しい思いをしているわけですが、妻の MacBook を先週末にようやくネットにつなぐことが出来たので、skype で好きなだけ子供を見ることが出来ました。お盆休みが待ち遠しいです。
 先週の金曜日、ちょうど生まれてから1ヶ月の8月1日に1ヶ月検診に病院に行ったところ、子供の体重は生まれたときより1キロくらい増えていて身長も4センチくらい伸びているとのことでした。子供をはやくこの手で抱いて安心して眠らせてあげたいと思って、お盆休みが待ち遠しいです。
 今年のお盆休みは13日から17日までで、12日の夜に東京を出て越後湯沢経由で金沢には深夜に着く予定です。帰りは17日の昼過ぎに金沢を出て夜に東京に着きます。そのあとは最低でも1ヶ月に1回は子供と妻に会いに行きます。これまでは大阪に行けば良かったので交通の便は良かったのですが、富山となるとなかなか不便です。富山といっても金沢と県境を接している南砺市というところなのでいつも金沢まで車で迎えに来てもらうのですが、東京から金沢に行くとなると、今回のお盆休みに利用する東京から越後湯沢までを上越新幹線で、越後湯沢から金沢までを特急はくたかでというコースが早いのかな。東海道新幹線を利用して米原経由で行くことも出来るけど時間もかかるし料金も高い。去年のお盆休みは上野から夜行列車を利用しましたが、そして東京に戻るときは高速バスを利用しましたが、今回はどれだけ長く向こうに滞在できるかということが重要なので夜行もバスもパスです。飛行機で羽田から小松に飛んで、そこからシャトルバスで金沢に出るという手もあります。列車で行くよりも2時間くらい早く着けるのですが、料金が少し高いことと、それから何よりもボクは飛行機があんまり好きじゃないのです。最終便が20時発なので、仕事を終えて会社から向かうとなると間に合わないなというのもあるのですが、でもまあそのうち一度くらいは利用するかもしれません。
 ともかくお盆休み以外は東京にいます。暑い日が続きますしビールを飲みに行くお誘いを断る理由はありません。

維持と変化

 つい先ほど、妻から無事実家に着いたという連絡を2ヶ月ぶりに戻ってきたばかりの東京のマンションで受けました。その連絡を受けて、この10ヶ月から1年にわたるひとまとまりの出来事に一区切り付いたという感触があります。

 5年ほど同棲していた妻と入籍したのが昨年の6月末、ボクが東京に単身赴任で出てきたのがその翌週の7月初旬、5年間同棲した大阪の家を引き払って妻の知り合いに借りた家で妻と妻の妹が暮らし始めたのが7月末のことでした。それからは隔週ごとに東京と大阪を交代交代にボクと妻が行き交う日々がはじまったのですが、妻の妊娠が発覚したのが11月のことだったと思います。それからはボクが隔週ごとに大阪に帰ることになり、年明けからは妻が安定期に入るまで大阪で仕事をさせてもらえることになりました。それで今年の1月から2月下旬までを大阪で働き、3月と4月を東京で働いたあとゴールデンウィーク明けからふたたび大阪で働くことになりました。なので今年の上半期は3分の2を大阪で過ごしたことになります。このような変則的な働き方を許可してくれた会社には感謝の念しかありません。おかげで元気な子供が生まれました。
 妻のお母さんが出産の前日から仕事を休んで大阪に出てきてくれていろいろ助けていただきました。子供が生まれる前から、生まれたらしばらくは妻の実家で妻のお母さんやおばあちゃんに助けてもらいながら子育てをするという話になっていました。離ればなれになるのは寂しいだろうなと生まれる前から想像していたし、生まれたあとは毎日子供を抱くたびにこれがあと何日しか続かないのかと残りの日数を数えてしまっていたのですが、それでも子供が東京よりは富山で過ごした方が空気もきれいだし妻も周りに助けられるだろうから賛成なのでした。それで今日、妻のお母さんが運転する車で妻と子供は旅立ち、ボクは新幹線で東京に戻ってきたのでした。

 昨年のちょうど今頃に妻と妻の妹と汗だくになって引っ越しをして(引越会社の人の方がもっと汗をかいてたけど)、その1年後にあらたに増えた1人とともに妻は大阪の家を出て実家に戻りました。1年前に3人で汗だくになって引っ越しをしたときにこのような結末を誰が予想したことでしょう。そう思うと、妻と妻の妹の生活のあるひとまとまりに終止符が打たれてそれぞれが新しい生活の中に入っていったのだなと思います。そんな彼女たちを見ていると少し取り残された感じがあって、ボクは基本的には東京で単身赴任をしていて定期的に妻(と子供)の元へ週末帰るという暮らし方に変化はありません。ボクが次に新しい生活を送ることが出来るのは家族3人で暮らすようになったときでしょう。ただ気持ちの上ではいろいろ変化があって、たとえこれまでと同じ生活であってもいろいろな局面を居心地の良いものにしたいなと思うようになりました。
 今後、大阪に帰る機会は激減すると思いますが、将来的に大阪で暮らしたいという気持ちは変わっていません。なぜなら自分の子供が関西弁以外の言葉を喋ることにおそらく耐えられないからです。

期待と不安

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 先週の木曜日に妻と子供が退院して家に帰ってきてからは寝不足の日が続いています。最初の頃は夜中に子供が泣き出すたびにふたりでオムツを替えたりミルクを与えたりしていたのですが、それは週末だったので、平日になると妻がすべてやってくれています。それでも寝不足気味なのは覚えていないけど夜中に目が覚めているのでしょうか。ともかく週末の今夜はボクがミルクをあげてオムツを交換しました。これまで赤ちゃんにミルクをあげたこともなかったし誰のオムツを替えたこともなかったけど、この3週間弱でもうすっかり手慣れたものです。
 生まれてくるまでは無事に生まれてきてくれるだろうかと不安だったけど、無事生まれてくれると今度は無事育ってくれるだろうかと心配の種は尽きません。きっとこれがこの先ずっと続くのでしょう。不安を上回る期待とか楽しみとともに。

泣いてあやしてまた泣いて

 週末は面会時間目一杯病院にいて子供を思う存分抱くことが出来ました。
 土曜日は妻が発熱してしまったのでナースステーションに預けていた子供を病室ではなくロビーで見ていたのですが、2時間くらいしたら子供がぐずつきだしたので病室の妻のところに戻ってミルクをあげることにしました。妻の熱も下がっていたのでそのまま病室にいて、ボクが子供を見ている間に妻には仮眠を取ってもらうことにしました。母子同室ということなので夜中ぐっすり眠るというわけにもいかず、たった30分くらい眠っただけなのに久しぶりにすっきりしたというから大変です。その夜は無理をしないでナースステーションに子供を預かってもらい、妻には体を休めてもらうことにしました。それでも授乳の際には起きないといけないので朝までぐっすりというわけにはいかなかったようです。
 日曜日は親や友人家族や妻のご学友が病院に来てくれました。ミルクを飲んだ時間と量、尿と便の時間などを毎日メモしているのですが、泣き出すとまずオムツの状態を確認して濡れていれば交換、抱っこしてあやしてもなかなか泣きやまないときはやっぱりミルクを欲しがっていることが多いのですが、ちょっとペースがはやかったりするときがあるので、そのときは何とか時間稼ぎするためにいろいろあやしてごまかさないといけません。抱っこして揺らしてみたり、背中とかをポンポンと叩いてみたり。オムツを替えるのも子供をあやすのもはじめての経験ですが、それでも少しは慣れてきました。それだけよくミルクを欲しがるし、よく飲むからその分オムツを交換する回数も多いのでしょう。
 起きていて泣いていないときというのは基本的にはあまりありません。ミルクを飲んでいる最中か、ミルクを飲んだあと眠るまでか、あるいはあやすのに成功したときくらいのものです。そういうときに目を開けてあたりを怪訝な表情できょろきょろ見ていることがあります。天井を右から左へ何かを追うように見ていたりするのは照明を見ているのかな。
 今日、ミルクを飲んだあとにいつものように少し前屈みに座らせて背中をポンポン叩いてゲップを出させようとしていたのですが、足の力が強いのか、ボクの右手に両手をかけた状態ですっくと立ち上がってしまいました。また、その状態で前方にがくんと垂れていた頭を持ち上げて天井の方を見上げていました。なかなか力強い子になってくれそうです。

出生届とはじめての抱っこ

 子供の誕生にあたり、mixitwitter での発言に対しメッセージをいただいたり、第一子誕生というタイトルで書いたブログのエントリーに感想をいただいたりもしました。リアルの知り合いからネット上での知り合いからすれ違ったことしかなかった人まで、様々な方々からいろいろなメッセージをいただき大変ありがたく思っております。
 生後すぐに新生児集中治療室に入れられ小児科に入院となった子供は2日経った今日の午後に小児科を退院し妻が入院している病室に移りました。この病院では母子同室ということでお母さんと赤ちゃんが入院中に同じ部屋で過ごすことが出来るのです。どれくらい一般的なことなのかよく分からないけど、たぶん誰だって生まれたばかりの子供とは一緒にいたいと思うだろうから良い仕組みだなと思っています。それで夜に妻の元を訪れ、自分の子供をはじめて抱くことが出来ました。子供は柔らかくて不安定で抱くのが怖いくらいに脆そうに思えます。それでも抱きたいという欲求が恐れに打ち勝ち、自分の腕の中で小さな生き物がすやすや眠っているのを見ていると時間がどっかに行ってしまえばいいのにという気持ちになりました。このまま永遠にこの子を自分の腕の中で守り続けることが出来ればなあと思いました。ボクの腕の中でこの子が年々歳を取っていき、やがて声変わりした低音の声で『お父さん』とボクのことを呼ぶなんて空想をしたりしました。
 それはそうと、当たり前だけど病院の中にいると空調が整っているので表の気温とか天気模様なんかはまったくわからないかも知れません。特に今日の大阪はとても暑くて、昼に出生届の提出と出産育児一時金の出生証明欄に記入してもらいに区役所まで行ってきたのですが暑いのなんの。暑い中をお前の出生届を出しに行ったと本人に言える日が来るのが今から待ち遠しいですが、出生届を提出したということは名前が決まったということです。生まれる前から妻と名前についてはいろいろ考えていて、生まれる前に候補はひとつに決まっていたし妻のお腹に向かってその名前で呼んだりしていたのだけど、それでもどこか名前で呼ぶことを躊躇してしまう瞬間がふと訪れたりするような気分・錯覚にとらわれたりしていました。出生届を提出したのでこの先彼はその名前で生きていくことを余儀なくされたわけですが、日常レベルではどのような名前で呼ぼうが勝手なので(といってもあまりにかけ離れたものだと本人が混乱するかもしれないので)名前をもじったニックネームみたいなのも交えてたくさんの呼び方をしているのですが、これって子供が自分の名前が何というのかを認識する邪魔をしてることになるのでしょうか。
 子供が生まれるということで購入した Xacti で撮った写真を Mac のデスクトップ画像にしたり携帯電話の待ち受け画像にしたりしています。あまりにもベタな行動だと思うけど、ベタにはベタであることの理由があって、やっぱり写真を見るたびに顔がにやけてしまいますね。

第一子誕生

 2008年7月1日17時37分に第一子を授かりました。いろいろと問題があって帝王切開するかどうかの選択を迫られ悩んだのですが、子供の状態を優先して帝王切開を選択しました。すなわち母体にリスクのかかる選択肢を選んだわけで、本当に妻には感謝するばかりです。妊娠期間中そして出産に際して妻が背負った苦痛や投げ出してくれた犠牲に比べてボクはいったい何をすることを出来ただろうと思うばかりです。あまりにもベタかも知れないけど、出産に際し父親に出来ることは非常に少ないと感じさせられました。出来る限り妻の支えになろうとしても、そしてそうなれたとしても、それはあくまで支えであって本柱であるところの母親には比されないのです。

 昨日の月曜日の朝に違和感を感じた妻と病院に行くと破水しているので入院することになりました。ただ陣痛の気配はなく、妻のお母さんが仕事を休んで富山から大阪へと出てきてくれたのですが、いっこうに陣痛の気配はなくその日はそのまま終わりました。
 火曜日の今朝に妻のお母さんとボクとで病院に向かおうというところで妻から電話があり、なぜかわからないけど急いできてくれというので行ってみると、朝の診察の結果、医師から陣痛促進剤の投与の選択を迫られているというのです。ボクはその時点ではじめて、破水してからの時間が長引くと細菌感染のリスクが高くなるということを知りました。ロビーで3人で話しているところへ看護士が来てさらに促し、結局は投与を選択しました。妻は奥へ連れて行かれ、ボクと妻のお母さんはそのままロビーで待っていたのですが、やがて呼ばれて通されたのが陣痛部屋でした。すでに妻の腕には点滴の針が打たれ、カーテンだけで仕切られたどこか別の仕切りからは本物の陣痛に苦しむ妊婦の漏らす声が聞こえてくるようなところです。そのような苦痛に歪む声を聞いていると、陣痛促進剤を投与していながらもそれが訪れないで苦痛から隔離されていることに安心を覚えてしまったりするのです。ああ、あの苦痛が妻に訪れるなんて! 目の前の餌に飛びつくだけの浅はかな私!
 昼食も普段通り食べていたので、仕事も残っていたボクはひとまず家に戻ることにしました。家に戻って食事を取って仕事のメールをチェックし、仕事の目処だけを付けて再び病院に戻りました。妻の状態は少しだけ痛みが増しているというくらいで、陣痛促進剤は劇的な成果を果たしてはいませんでした。しばらくまた点滴が投与されていく妻と妻のお母さんと陣痛部屋に待機していたら、ある時に突然胎児の心拍数が劇的に下がってきたのです。ボクはまた妻がベッドの上で姿勢を変えて、お腹に当てている胎児の心拍数をはかる器具の位置がずれたのだと思っていたのですが、看護婦さんが飛んできて先生が診察したところ、胎児になんらかの負担がかかっているとのことでした。陣痛促進剤が直接胎児に影響しているのかどうかわからないけど、破水してから30時間以上が経ち促進剤を投与してもなお陣痛は訪れず、その時点で帝王切開するかどうかの選択を迫られました。その時点で帝王切開せず今しばらく陣痛の訪れを待つという選択肢も残されてはいたのですが、仮に再び胎児への負担がかかった場合のことを考えると、苦渋の選択ではありましたがボクたち夫婦は帝王切開を選択せざるを得ませんでした。もちろんその選択は胎児への負担を減らす一方で母体へのリスクを増すものであり、だからこそ苦渋の選択であったわけです。
 妻がボクたちの子供を産むにあたってはらった犠牲をボクは忘れません。妊娠期間中、そして帝王切開という選択肢を選んだこと、それらはすべて妻が一人で払った犠牲のリストです。そこでボクが出来たことはあまりにも少ないと思います。ボクは出来る限り妻の支えになって妻の不便さや苦痛を緩和出来ればと働いてきましたが、出産に際しては母親にしか出来ないこと、父親であるところのボクがけして立ち入ることの出来ない領域があるのだと思い知らされました。
 帝王切開は無事に終わりました。まず子供が先にボクたち(ボクと妻のお母さん)の前に披露され、しばらくしてから手術を終えた妻がベッドに乗って戻ってきました。破水してから30時間以上経っていること、それから過呼吸の症状が見られることを理由に子供は小児科に即入院ということになりGCU(Growing Care Unit:成長促進室)に移されました。術後で動けない妻を病室に残して、ボクと妻のお母さんは GCU に入り子供と対面しました。過呼吸のために酸素濃度を高くした箱に入れられた子を見て、この子が自分の子だと思うと無条件でこの子を守ってやりたいという気持ちになりました。この子が晒されるであろうあらゆる危険から、そしてこれは間違っているのだろうけど晒された方がこの子のためでもあるような危険からでさえも、ボクがこの子とあらゆる危険との間に立ちはだかってやりたいという気持ちになりました。
 でも考えてみればそんなことは不可能だということはよくわかっているのです。この子にはこの子の人生があるのです。ボクにボクの人生があったように。ただある時点まではそのようにしてやらなければならないと思いました。やがてこの子が強くなり、自分で立ち向かえるようになったときにボクはこの子の前に立つのではなく横に並ぶようになりたいと思いました。そして時にはこの子がボクの前に立ったり、ボクがこの子の前に立ったり、ボクと妻とがこの子を守り、この子がボクたちの庇護を通り越し先へ行くことを願っています。
 ボクはこれまで知り合いであろうと誰であろうと、赤ちゃんという存在に触れたことがありませんでした。生まれて数時間の人間に触れたのははじめての経験でした。こんなに小さくてこんなに不安定で、でもこんなにしっかりとしていてこんなにも力強いものなのかと思いました。
 妊娠期間中と出産に際し妻は十分にがんばってくれました。これからはボクががんばる番です。妻とボクたちの子のために、そして妻とボクたちの子のおかげで、ボクは再びがんばることが出来るような気がします。だから生まれてきてくれてありがとう。この世界はひどいことが多いしその責任の一端は君より先にこの世界で生きてきたボクたちにある。だけどこのひどい世界にあってもなお意味のある生き方を見つけることが出来るようになってほしい。ボクたちがそうしようとしているように。

京都音楽博覧会を見てきて。

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 かれこれ何週間前のことを書こうとしているのだろうか。記憶は何を気にすることもなく砂漠の焼けた砂に染み込み消えてゆく水のようにか、脳裏に浮かんでもすぐにどこかへいってしまう。そもそも記憶というのはそういうものなのかもしれない、とどこかで読んで納得したのかそれとも自分で思いついたのか。記憶がもし幾分の崩壊もなくその存在を留め続けたとしたら人生はもっと辛いものになっていたかも知れない、とボクは思う。人はきっといろんなことを忘れていくから次に新しいことをはじめられるのだ。と同時に記憶に執拗にしがみつこうともする。ボクがこうして時間を遡ってブログを書こうとするように。どうしても忘れたくないことが誰にでもあるように。

 先々先週の週末(9月23日の日曜日)。この週末の帰阪の目的のうちのひとつが京都音楽博覧会だったのです。
 なぜか当日の朝にならないとタイムテーブルが発表されないという、そしてそれがおそらく許されてしまうというなんとも緩やかな雰囲気の漂うミュージックフェスティバルにボクたち夫婦がたどり着いたのは結局午後3時を少し過ぎていました。そもそもその日の朝に公式サイトではじめてタイムスケジュールを目にし3時過ぎからの出演の Cocco に間に合えばいいやという思っていたのです。妻も特に反旗を翻さなかったので昼過ぎに最寄り駅の駅前でハンバーガーを食べて、それから京都に向かいました。駅から会場までの地図は公式サイトから画像を携帯電話に送っていたのですが、京都駅からその地図の通りにいったつもりがまったくの逆方向だったのにはショックでした。自慢じゃないですがボクは道を間違うことはあっても道に迷うことはありません。1本通り過ぎてしまったり1本手前で曲がってしまったりしたことはあっても、その先で合流する本通りに戻ることは出来たし結果的には道を間違えたと言うほどのことではなくなったものでした。
 しかしともかくボクは道を間違え、タクシーに乗って駅を挟んだ反対側の会場に着いた頃には午後3時あたりでした。京都に着く直前から雨がぱらぱらと降ったり止んだりを繰り返していて、入場チケットとリストバンドを交換して会場に入ると一面にシートを敷いて座り込んだ人たちが雨合羽を着たりしていました。すぐにはじまるだろう Cocco のライブに備えて真ん中は無理なので両端の通路をだいたい真ん中くらいまで前に行って待っていたのですが疲れてきて座ることも出来なかったので思いきって会場後方の小川のせせらぎなんかが聞こえる一角に移動しました。それでステージは見えなかったわけですが音はばっちり聞こえていたのでよしとしました。Cocco のステージが終わる前にフードコートに移動してたこ焼きとタイ風焼きそばと担々麺を食べていたら雨が降ってきたのでちょうど座っていたテーブルにパラソルがあったので雨宿りとなったのですが雨足は衰えるどころかその勢いを増すばかりでボクは半身が上から下までびしょ濡れになっていたし、まわりを見回しても同じようにしてテーブルについたパラソルに見知らぬ人同士肩を寄せ合って雨をしのいでいるか、あるいは屋台かゴミ捨て場のテントの中に入っているかしている。雨が降り出したのはちょうど小田和正がステージに上がってくるりのばらの花を演奏しだしたときだった(歌詞が『雨降りの朝で〜』とはじまる)。
 いつまでたっても雨は止まないし、会場の入り口で売ってたような気がした雨合羽も売り切れていたのでくるりの演奏を聴かずに帰るという選択肢も少し考えたりしたのだけど、小さなテーブルの小さなパラソルの下からゴミ捨て場の大きなテントにとりあえず移動したら雨にも濡れなくなって、そのうちに雨足は弱まっていきました。くるりの演奏がはじまる頃には雨は止んでいた。それで会場内に移動してくるりの演奏を楽しむことが出来ました。ボクは昔からのくるりのファンというわけではなく、むしろベストアルバムワルツを踊れ(最新アルバム)しか聴いたことがありません。ライブでは最新アルバムの曲もアルバムとは異なったアレンジで楽しむことが出来ました。楽曲にバリエーションがあるなあと思った。

 くるりの演奏がはじまる前にゴミ捨て場のテントで雨宿りをしているときに妻の携帯電話に韓国人の友達から電話があった。どうも家族でちょうど京都に来ているという。くるりの演奏が終わって会場を出ると子供と一緒に待っていてくれたので旦那さんが運転する車に乗って京都駅近くで食事することになりました。
 東京に出てくる前は週末によく会って出かけたものだったけど久しぶりに会うと子供は少しよそよそしい感じでした。お好み焼きを食べて大阪まで車で帰る途中、妻の家を見たいと言うことで家まで行くことに。その頃には子供からもよそよそしさが消えていて、家ではまた前のように遊ぶことが出来ました。
 彼と会うのは3ヶ月ぶりくらいだったけどとても喋るようになっていた。もちろん韓国語なのでボクにはよくわからないのだけど、それでもお母さんやお父さんやボクの妻と会話出来ていた。子供の成長というのはとても興味深いなと思ったし、自分たちが子供を育てる立場になったときにはその難しさや苦労と引き替えに得ることの出来るだろう喜びなんかも想像したりするのでした。

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